新羅における官位制の中の官位のひとつ「沙飡(ササン)」を紹介する。まずは日本の冠位制を知る。冠位制度、そしてその変遷、冠位の授与を紹介する。そのうえで新羅の官位制度を紹介、沙湌 (ササン)がどのような位置づけであったかを知る。次の流れで紹介していく。
・日本における冠位制
・冠位十二階制の授与
・七色十三階冠制
・冠位十三階制以後の授与
・阿武山古墳から出土した冠帽
・冠位の利用シーン
・新羅の官位制度
・日本における渡来人への官位の授与~百済王善光、高麗若光への授与を例として~
・考察~新羅における官位・沙湌 (ササン)について~
■日本における冠位制
冠位十二階は603年に制定された。
605年-648年まで実施された。
その後647年の大化3年には13階制となった。
その後は19階、26階、48階と変遷した。
701年には大宝令が制定された。
そこで48階制から30階制に整理された。
十二階制は次の通り。
徳、仁、礼、信、義、知と大、小の区分から成る。
「徳」を重んじ最高ランクに位置させた。
・大徳・小徳
・大仁・小仁
・大礼・小礼
・大信・小信
・大義・小義
・大智・小智
過去記事にて冠位制度について取り上げた。
↓聖徳太子によって制定された「冠位十二階」がもたらした意義
■冠位十二階制の授与
・「秦河勝」が「小徳」に指定された。
ほか、下記の授与例がみられる。
・国博士の高向玄理(たかむこのくろまろ、名は黒麻呂とも)が小徳に指定
・仏師の鞍作止利(くらつくりのとり)が大仁に指定
・小野妹子が大礼から大徳に昇進
参考:冠位十二階制度を取り上げた回
■七色十三階冠制(ななしきじゅうさんかいかんせい)
・大化3年(647年)に制定された
・従来の12階を6~7に統合、その上で上位に6階級を設けた
・十二階制の最高位である大徳は十三階制の7番目の大錦にあたる
・上位には新たに大織、小織、大繡、小繡、大紫、小紫が加わった
・下位に建武が加わった
十三階は次の通り。
・大織・小織
・大繡・小繡
・大紫・小紫
・大錦・小錦
・大青・小青
・大黒・小黒
・建武
■冠位十三階制以後の授与
冠位十三階制のもとでは大織、小織、大繡、小繡の授与はない。
その後の制度においては下記の授与がみられる
・大繡に巨勢徳多(こせのとこた)
・織冠(大織または小織)に百済・扶余豊璋(ふよほうしょう)
・大織に藤原鎌足
■阿武山古墳から出土した冠帽
阿武山古墳の所在は大阪府高槻市奈佐原・茨木市安威。
築造は7世紀代。
形式は直径82mの円形の墓域が形成された。
通常の古墳(盛り土があるもの)ではない。
棺の中に60歳前後の男性のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていた。
その際、肉や毛髪、衣装も残存した状態であった。
1934年に発掘された。
しかし極めて高位の人物であるためトラブルとなり埋め戻された。
被葬者は藤原鎌足とする説が有力。
参考①:史跡阿武山古墳 - 高槻市ホームページ
参考②:阿武山古墳 - Wikipedia
■冠位の利用シーン
根使臣が押木玉縵を着用したシーンが日本書紀で描かれる。
元は大草香皇子が保有していた根使臣の押木玉縵(おしきのたまかづら)は外交上のおもてなしや有力者たちの晩餐などで着用されていたのだろうか。
雄略記では晩餐に関連する話として
・呉からの遣いに対して食事をしてもてなす「共食者(あひたげひと)」
・食器を製作する贄土師部(にへのはじべ)の誕生
などが描かれている
↓過去記事、根使臣が押木玉縵を利用、呉人との食事が描かれている
↓土師氏からから食器を製作する贄土師部(にへのはじべ)が誕生した回
■新羅の官位制度
「三国史記」・新羅本紀によれば儒理尼師今9年(西暦32年)に17階級の官位(京位)を制定したとする。
ただこの年代は信じられてはいない。
しかし真興王代(540年~579年)には既に成立していたことが王代の碑文によって確認されている。
三国史記で示される新羅の官位は次の通り。
なお、岩波文庫/日本書紀(五) を出典とする。
※日本書紀(五)では三国史記、金石文、中国史籍、日本書紀を照らし合わせながら新羅の官位が示されている。
等級 官位名 読み方 官位名の原義
1.伊伐湌 いばつさん/イボルチャン 王族の長
2.伊尺湌 いしゃくさん/イチョッチャン 最高の貴族
3.迊湌 そうさん/チャプチャン 旧小国の首長
4.波珍湌 はちんさん/パジンチャン 本彼の首長
5 .大阿湌 だいあさん/テアチャン 王朝直属の首長
6.阿湌 あさん/アチャン 一般の諸首長
7.一吉湌 いつきつさん/イルギルチャン 一城の首長
8.沙湌 ささん/サチャン 新村の首長
9.級伐湌 きゅうばつさん/クッポルチャン 旧村の首長
10.大奈麻 だいなま/テナマ 王朝直属の豪族
11.奈麻 なま/ナマ 一般の豪族
12.大舎 だいしゃ/テサ 大阿湌の郎党
13.舎知 しゃち/サジ 阿湌の郎党
14.吉士 きつし/キルサ 高句麗・任那で首長の義
15.大烏 だいう/テオ 不明
16.小烏 しょうう/ソオ 不明
17.造位 ぞうい/チョウィ 不明
■日本における渡来人への官位の授与~百済王善光、高麗若光への授与を例として~
渡来人に対して日本(倭国)はどのような冠位を授けただろうか。
下記の2例がはっきりとしている。
1.百済王善光
百済王・善光(生誕年:不明~693年)は百済の第31代国王・義慈王の子。
倭国において冠位として正広肆を授かった。
また死没後は正広参が贈られた。
2.高麗若光
高句麗の寶臧王(ほうぞうおう)の息子。
高句麗滅亡後、日本に渡来。
従五位下(※)を授かった。
716年に武蔵国に東海道7ヶ国から1799人の高句麗人を移住させ高麗郡を設置した。
その際に若光もその一員として移住した。
高麗郡は現在の埼玉県日高市の高麗である。
※従五位下についての補足
律令制における30段階の位階(少初位下~正一位)のうち、従五位下より上が貴族、従五位下だと上国の守(じょうこくのかみ、ランクの高い国、国司の最上位者)になることができたとされる。
■ 考察~新羅の官位・沙湌 (ササン)について
新羅において官位制度の策定の際にペルシア人への授与が考慮されたのではないか。
その痕跡として「沙湌」というがみられる。
新羅の「湌(さん)」や王号の「干(かん)」は原義は首長と考えられている。
その官位のおよそ中間ランクに「ササン」が入ることは興味深い。
「ササン」はササーン朝ペルシアの「ササーン」を想起させる。
倭国では冠位制度を制定する際に聖徳太子(厩戸王)が蘇我氏や群臣(マエツキミ)たちからサポートを受けていた。
また中国や朝鮮の冠位制度を研究していた。
新羅においてはペルシア人などが渡来、テクノクラートとなっていたのではないか。
三国史記は1143年頃の作成、1145年完成である。
よって新羅本記は完全な史実を描いているとはいいがたい。
しかし碑文によって真興王代(540年~579年)には官位が成立していたとされる。
新羅の天馬塚古墳も6世紀前葉頃のものである。
よって少なくとも500年代前半より前に新羅にペルシアからの渡来があったと考えられる。
新羅における渡来人を登用するために官位制が用いられた。
その基準として中間の位にあたるの8番目に沙湌が設けられた。
新村の首長に割り当てられたと考えられる。
↓コトバンク、天馬塚
↓は新羅にアラブ人が到達していた
↓日本では正倉院にエジプト、イラン、トルコなど西方由来のモノが所蔵されている
■まとめ
・新羅における官位の沙湌 (ササン)は17中8番目の中間
・新興勢力の首長級に割り当てられらてた
・ペルシアからの新興勢力に割り当てられたと推定される
<参考>
日本の冠位制
・日本書紀(五) 岩波文庫
・冠位十二階 - Wikipedia
・冠位・位階制度の変遷 - Wikipedia
・七色十三階冠 - Wikipedia
新羅の官位制
・三国史記3 平凡社
・古代・新羅の身分制度: 骨品制 - Wikipedia
・yahoo知恵袋:新羅の品楷の飡や干はどのような意味ですか? - ご質問の飡(サン)は... - Yahoo!知恵袋
その他参考
・高向玄理 - Wikipedia
・巨勢徳多 - Wikipedia
・鞍作止利 - Wikipedia
・藤原鎌足 - Wikipedia
・サーサーン朝 - Wikipedia
・百済王善光 - Wikipedia
・冠位二十六階 - Wikipedia
・高麗若光 - Wikipedia
・早わかり高麗郡入門Q&A:https://www.city.hidaka.lg.jp/material/files/group/14/20140327-093026.pdf