飛鳥時代、聖徳太子により「冠位十二階」が制定されます。この冠位十二階がもたらした意義を見ていく。
■蘇我氏と仏教の伝来
6世紀頃、蘇我氏は渡来人の知識や技術を利用しながら、政治への影響力を強めていきました。538年には百済から仏教が伝えられ、その6世紀後半には受け入れを積極的に行っていきました。蘇我氏は対立する豪族を滅ぼし、政治権力を手に入れます。
■推古天皇と聖徳太子
593年に推古天皇が即位すると、甥にあたる聖徳太子が政治に参加します。蘇我馬子と協力しながら中国や朝鮮の政治を参考にしつつ、大王中心の国家の仕組みをつくっていきます。
■冠位十二階は人材登用の制度
冠位十二階(603年制定、605-648まで実施)は、家柄にとらわれない、才能や功績のある人物を役人に採用する、人材登用の制度です。
■十七条の憲法は役人の心構え
また、十七条の憲法として、役人の心構えを示しました。これは、儒教と仏教の教えを融合した形になっています。
■遣隋使として小野妹子を派遣
また聖徳太子は、大陸の進んだ制度や文化を取り入れるため、小野妹子を遣隋使として派遣(607年)しました。なお遣隋使は、600年~618年の18年間に3回~5回、派遣されたそうです。なお、小野妹子が2回目に派遣された。
■法隆寺の建設
法隆寺は奈良県飛鳥地方に聖徳太子が建てた寺院で、607年頃完成したと言われています。現存する最古の木造建築です。日本書紀の中に「法隆寺炎上」の記述がみられ、再建されたようです。飛鳥文化として、仏教文化、仏像や寺院がつくられていきます。
■まとめ
日本に既にあったアニミズム・神道的な思想に、儒教の教えが取り入れられていった中で、仏教の導入が行われ融合が進んでいきます。遣隋使を行って大陸文化を取り入れます。冠位十二階という登用制度、十七条の憲法を制定します。この内容には心構え、三宝を敬う、主従関係、礼節、賞罰、集団合議などの項目が含まれています。聖徳太子により、仏教文化が開いていきます。なお第1条に「和を以て尊しとなす」があります。
これの意味は意見の相違はあるものという前提で、争うのではなく議論でもってとことん納得するまでやって、内容を整理していけということのようです。
また第17条では、独断はいけない。重大な案件では集団合議できめるようにと定義があります。1条や17条をみるに、当時は意見の食い違いでいろいろ争いが起きており、
意見を出し合いながらまとめていくプロセスを構築しようとしていたということが推察されます。
なお、この時点での仏教はまだ不完全なものでした。仏教を完成させる三宝、すなわち仏・法・僧の3つのうち、仏・法はできたが、まだ僧が不完全な状態でした。のちに鑑真を招聘することにより三宝により完成しいったそうです。
<参考>
・改訂版 中学校の歴史が1冊でしっかりわかる本
・十七条憲法 - Wikipedia