シン・ニホンシ

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135.古墳とは祈りをささげるための祭祀場

前記事では銅鐸の真の用途を取り上げた。今回は古墳の真の用途を紹介する。古墳について、何のためにつくり、そして普及していったかが改めてわかるようになる。

■古墳の建造の始まりと終わり
古墳は全国に16万基本あるとされる。大王の墓というイメージが強い。3世紀後半~7世紀にかけて建造された。始まりは弥生時代の墳丘墓から発展したものだろう。終わりは飛鳥時代奈良県明日香村のキトラ古墳高松塚古墳、そして千葉県栄町の龍角寺岩屋古墳、千葉県山武市の駄ノ塚古墳あたりが古墳の終末期の古墳とされる。
■墓制から古墳へ
古墳は埋葬文化とも大きく関係する。縄文時代の埋葬は土坑墓(どこうぼ)がある。北部九州地方では、渡来人による土器技術の影響だろうか、甕(かめ)や壺を棺とする甕棺墓(かめかんぼ)が顕著に見られる。古墳の原型とも考えられる「方形周溝墓」は例えば伊勢湾地域では弥生時代前期にも始まっていたとされる。
■建物としての神社やお寺の始まり
古墳は祈りの場所としても関係する。このため神社やお寺の建造が始まると古墳の建造も終了する。まずは神社の始まりについて。伊勢神宮の起源は約2000年前、天照大御神の鎮座地を探して各地を巡っていた倭姫命が、天照大御神のお告げにより五十鈴川のほとりに内宮を建てたのが伊勢神宮の起源とされる。建物にかかわる「伊勢神宮式年遷宮」は飛鳥時代の690年に始まったとされる。一方、お寺の始まりについて。蘇我馬子飛鳥寺は587年に始まり596年に完成したとされる。また、601年創建の法隆寺。神社、お寺のいずれにしても聖徳太子(574-622)が大きく関わり、蘇我氏などの豪族によってスキーム化され、神社やお寺が建築されていったと考えてよさそうだ。
■春秋のおまつり
卑弥呼(日向)によって春と秋のお祭りが取り入れられたとされる。
■誰が大規模古墳をつくり始めただろうか
はっきりしたことはわからない。弥生時代卑弥呼の死亡が247年頃、38歳くらいで死亡。大日之命がいったん後を継いだのち、台与にバトンタッチされる。台与は266年、西晋、つまり武帝司馬炎)へ遣使した記録が残る。台与のあと、しばらくしたのち、3世紀の終わり頃から4世紀の初めにかけて日本武尊の活躍、東征などが行われる。また、秦氏は自己申告によると283年頃、百済からの渡来とされる。秦氏は古墳建造に確実に関わっているが、この283年あたりより前に始まっていたかどうかがポイント。
■古墳とは祈りをささげるための祭祀場
古墳とはなんだったか。奈良時代の仏教の公式伝来である583年頃~飛鳥時代以降は神道や仏教によって大衆が救われていった。古墳はその手前の、古墳期において、祭祀者が神に対して祈りを捧げたり、あるいは大衆とともに五穀豊穣を願いながらお祭りを行うための祭祀用施設であったと考えられる。お寺、神社建設が始まると古墳の建造は完全に終了し、信仰用の施設としては役目を果たした。建築技術をもった人たちも古墳から神社、お寺の建造に東奔西走していく。
■感想
・方形周溝墓を「陶芸」に例える。方形周溝墓は何度も納得いくまでろくろを回して積み重ねていくボトムアップ型であろうか。こういうものは縄文人だろうか。一方、数学、構造的にきっちり計算、トップダウン形式で大規模型の古墳は大陸からの渡来系ユダヤ人の末裔だろうか。イエス・キリストも大工の息子であった。建物を精度よく縦横きっちりつくるには技術や監督者、チーム、指示だしのスキル伝承は必要。
<参考>
弥生墳丘墓 - Wikipedia
弥生時代の墓制 - Wikipedia
古墳の時期区分年表 | 世界の歴史まっぷ
終末期古墳 - Wikipedia
造出 - Wikipedia
弥生時代の3期区分 | 世界の歴史まっぷ

弥生時代中期(方形周溝墓と集落)
・伊勢湾周辺地域における方形周溝墓の埋葬施設 http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo08/0804miya.pdf
・服部遺跡 弥生時代中期(方形周溝墓と集落)
青銅器 - Wikipedia
司馬炎 - Wikipedia
・世界の窓 帯方郡
国立情報学研究所 神まつりと古墳の祭祀 https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=379&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=41