シン・ニホンシ

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134.銅鐸とは稲作用の太陽高度の観測装置

銅鐸とはいったいなんなのだろうか。銅鐸はひじょうに限定された時期、場所において出土される古代の青銅器である。その真実は藤芳義男氏の著書「銅鐸の謎」によって解き明かされた。この「銅鐸の謎」およびその他のオシント情報を元に、この銅鐸の謎を明らかにする。

■銅鐸の始まり
紀元前250年~紀元後50年くらいの間のものとされる。古墳時代は紀元後250年頃始まるため、それよりも200年ほど早い。

■出土場所
その出土場所が特殊なことが知られている。通常、遺跡で発掘されるような銅鏡、銅剣、埴輪などといったものは考古学者たちによって遺跡を「掘る」ことで発見される。しかし銅鐸はそうでない。集落から隔絶した「丘陵の斜面」から出土するとされる。このことは、銅鐸が古墳などとは無関係であり、また別目的の道具であることを意味する。

■分布
北九州や近畿のエリアで出土、分布する。これはある意味で「銅鐸時代」ともいえる、特定の時期の渡来者からの技術提供を意味するのだろうか。

■色
新しい10円玉と同じく、黄金のような色。錆びていない10円玉の色をしている。

■用途
祭祀用の鈴として用いられることも。それ以外の「太陽の観測用」として用いられたことがわかった。

■技術
朝鮮小銅鐸(ちょうせんしょうどうたく)を元として独自の技術が発揮されている様子。

■模様
水のうねりを示した「流水紋」タイプの銅鐸がある。水のうねりつながりとしては縄文時代火焔土器も、実は火ではなく水を表しているという説があり信ぴょう性が高い。また香川県で江戸時代に出土したとされる袈裟襷文銅鐸(けさだすきもんどうたく)では銅鐸に原始的な絵画が示されている。全面に6つ、後面に6つの計12つの12コマの絵が示されている。これは「12か月の行事」を表しているとされる。

■孔(こう)とは
銅鐸に穴が開いていて孔と呼ばれている。これが不明で意味がわからないものとされていたが、実は「太陽の採光用」に作られた穴。10個の孔がある。太陽高度の観測のために必要な採光用の穴である。孔により朝日、夕日を測定する。彼岸の中日を確認する。例えば2023年の彼岸は3月18日~3月24日。翌々月の同じ月齢の日はイネの籾撒きの適齢期とされる。このためその適齢期を2カ月前に把握し、田植えの準備を始めるためのものと考えられる。

■孔による太陽光の採光と太陽高度の測定
銅鐸内に孔から太陽光を取り入れ、太陽高度によって光の照射位置が変わることがわかるように銅鐸を製作している。その着想、物理学、数理式化など相当なレベルといえる。興味がある方は公開情報としては参考に示した「天文月報1989年1月 銅鐸と太陽 関口直甫」なども参照頂きたい。

■日本において春秋で祭り
卑弥呼が日本において春秋で祭りを始めたとされる。銅鐸はそれ以前のものであるため、また朝鮮を経由して渡来した技術とすれば、稲作のための測定用装置も兼ねているという説は納得できる。また書籍「旧暦で読み解く日本の習わし」に次のような情報がある。中国の史書三国志」の「魏志東夷倭人伝」裴松之(はいしょうし、372年 - 451年)の注釈にて「農業プロセスに関する正しい時期を知らない人々」との記述があるそうだ。また、書籍ではこの意見に対し反論を展開している。実際は、当時の人びとは稲の大規模展開に苦戦していたのだろう。結果、渡来した技術者の「農業プロセスの適正期を観測する技術」によって稲の大規模展開化が可能になっていったのだろう。

■感想
・銅鐸が紀元前250年~紀元後50年くらいの間で出土というのが興味深い。中国の漢に対して57年には倭の奴国(ただし、通説では)から朝貢がなされる。
・藤芳義男氏の、当時まだインターネットなどない中での推理力、洞察力、知識、数学、工学、文化的知識の奥深さに驚嘆せざるを得ない。
<参考>
・銅鐸の謎 藤芳義男
・旧暦で読み解く日本の習わし 大谷 光男

邪馬台国の会 淡路島出土の銅鐸:第340回活動記録
野洲市 銅鐸の謎を探る:https://www.city.yasu.lg.jp/kosodate/bunka/bunka/1454413359758.html
裴松之 - Wikipedia
銅鐸 - Wikipedia

和銅寛 銅鐸復元鋳造 | 和銅寛オフィシャルサイト
・天文月報1989年1月 銅鐸と太陽 関口直甫
 https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1989/pdf/19890103.pdf
・大岩山と近江の銅鐸 出土数から見た位置付