シン・ニホンシ

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293.魏の景初三年・239年が紀年された三角縁神獣鏡と画文帯四神四獣鏡

今回は魏の景初三年・239年が紀年された三角縁神獣鏡と画文帯四神四獣鏡を取り上げる。前者は島根県の「神原神社古墳」、後者は大阪・「和泉黄金塚古墳」から発見されたものにあたる。
また、島根の鏡の出土の周辺地域にまつわる古代の伝承などを取り上げ、どのような地域であったかを探る。次の流れで紹介していく。

・島根・神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)
 ・神原の地名の由来
 ・遊託山(ゆたやま)比婆山(ひばやま)
 ・比婆山と広島
 ・出雲大社の建材としてのヒバ
 ・ヒバと日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
 ・加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)
・大阪・和泉黄金塚古墳
 ・和泉黄金塚古墳の出土品

■島根・神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)
所在は島根県雲南市加茂町
神原神社の移転に伴いその下の古墳の発掘調査により「景初三年」が記された三角縁神獣鏡などが出土している。
古墳の形式は方墳。
大きさは一辺30~35m。
古墳の築造は石室付近から発見された埋葬儀礼に使用された土器から4世紀と考えられる。

埋葬施設は竪穴式石室。
その大きさは全長6m。
内部に長さ5mの割竹形木管(わりだけがたもっかん)が置かれていた。

石室の副葬品に
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)
・素環頭大刀
・木装大刀
・鉄鏃
・鍬(くわ)
・鎌
・斧
・ノミ
・錐
・鉈(なた)状鉄器
・縫針
・鉄剣
が発見された。
なお、三角縁神獣鏡とは縁部の断面形状が「三角形状」となっているものである。

↓はしまね観光ナビ、神原神社古墳

www.kankou-shimane.com

■神原の地名の由来
まず、神原神社とはどのような神社だろうか。
祭神として大国主神、磐筒男命(いわつつお)、磐筒女命(いわつつのめ)を祀る。
大国主神のほかに「磐筒」がみられる。この磐筒男神日本書紀にて経津主神(ふつぬしのかみ)の祖とされている。

つぎに神原とはどのような地であっただろうか。
出雲国風土記の大原郡(おおはらのこおり)条に神原郷(かむはらのさと)の地名がみられる。

神原郷は天の下所造(あめのしたつくら)しし大神の御財(みたから)を積み置くとことろであった。よって神財の郷(かむたからのさと)というべきところを誤って神原の郷(かむはらのさと)といった、との由来が残る。
↓はwikipedia、神原神社

ja.wikipedia.org

続いて周辺の土地を探る。

■遊託山(ゆたやま)比婆山(ひばやま)
出雲国風土記仁多郡(にたのこおり)の条にて「遊託山(ゆたやま)」の地名が残る。
現在の比婆連山の烏帽子山とされる。

比婆山にはイザナミの御陵としての伝承が残っている。

イザナミスサノオについて、そしてスサノオオオクニヌシの関係について示す。

イザナミは大分生まれの女性、スサノオの実母にあたる。

紀元前8世紀(700年代)、天照が高千穂峰の王朝にて女王となっていたころ、スサノオが中国地方、出雲の国へ東征を行った。

また和平の条件としてヤマタノオロチスサノオが退治する条件で、出雲の豪族よりクシナダヒメを妻として差し出すこととなった。

その後、スサノオは部下たちを率いてのちの新羅へ出兵した。

これがのちに渡来人の中に倭人がいるという遺伝子解析結果が出ている理由と考えられる。

比婆山と広島
比婆山は「広島」にある。
広島の地名の由来は毛利氏の祖先の大江広元の「広」と福島元長の「島」をとってつけたとされている。

一方、出雲国風土記の編纂の最終責任者は出雲臣(いずものおみ)広嶋ひろしまである。このあたりのことが「広島」という地名の由来として残った理由と考えられる。
なお、大江氏はもとは大工や石工の職人集団であったと考えられる。

詳細は下記、過去記事を参照頂きたい。

↓はgooglemap、比婆山御陵

maps.app.goo.gl

参考①:↓はwikipedia、出雲広嶋(いづものひろしま)、奈良時代の人物
出雲広嶋 - Wikipedia

参考②:↓はwikipedia大江広元平安時代末期から鎌倉初期にかけての貴族
大江広元 - Wikipedia

参考③:↓は高千穂峰の王国を紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

参考④:↓大江氏はもとは大工や石工の職人集団と推定した回

shinnihon.hatenablog.com

出雲大社の建材としてのヒバ
ユタ山の「ユタ」が「ヒバ」とのちに改名されているのが気にかかるのであるが、ヒバにつながる事象を紹介する。

ヒバは樹木。ヒノキ科アスナロ属に属するアスナロ、そしてその変種であるヒノキアスナロという樹木の2つ。
いずれも日本固有の植物とされる。

ヒバは出雲大社中尊寺金色堂などの社寺仏閣の建材として用いられた。
このような樹木名と出雲大社とのつながりが「ヒバ」に残るのかもしれない。

↓は東北森林管理局、ヒバとは

www.rinya.maff.go.jp

■ヒバと日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
出雲とヒバの関係について。
垂仁天皇の2番目の皇后に日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)がいる。
これがどう出雲とつながるだろうか。

オオクニヌシが国譲りしたのは実際はヤマトタケルに対してあったと考えられる。

オオクニヌシは西暦300年頃、ヤマトタケルに国譲り後、東征をサポートした人物。

オオクニヌシが国譲りを行う際のこと。
多芸志の小浜(たぎしのおばま)に天の御舎(あめのみあらか)を建て、天つ神の使いであるタケミカヅチを迎えいれるために館を建造した。
これが出雲大社の起源と考えられる。

国譲りにまつわるタケミカヅチタケミナカタなどといった人物については別記事で取り上げたい。

ヤマトタケルの父は景行天皇(大足彦忍代別)である。
垂仁天皇と日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の子女の一人が景行天皇とされている。

■加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)
島根県雲南市加茂町岩倉の農道工事現場から39個の銅鐸が見つかっている。
弥生時代中期から後期のものと考えられている。
銅剣がみつかっている荒神谷遺跡からは約3kmの距離。
なお、銅鐸は平たんな場所から見つからず、傾斜のある場所からみつかるとされる。
これは銅鐸が太陽高度の観測装置だからであると考えられる。

↓は銅鐸について取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

↓は雲南市、加茂岩倉遺跡

www.city.unnan.shimane.jp

つづいて大阪・和泉黄金塚古墳を取り上げる。

■大阪・和泉黄金塚古墳(いずみこがねづかこふん)
所在は大阪府和泉市上代(うえだいちょう)
古墳の形状は前方後円墳
大きさは墳丘長約94m。
築造は4世紀後半頃とされる。

後円部に埋葬施設がある。
3基の粘土槨がある。
木製棺の長さは
・中央槨:8.7m
・東槨:4m
・西槨:4.37m

■和泉黄金塚古墳の出土品
この中央槨の棺外から画文帯四神四獣鏡が出土した。
その鏡には、景初三年(239年)の銘があった。
なお、画文帯四神四獣鏡は上記のほか東槨の棺内からも発見されている。

そのほかの出土として

中央槨から、
 棺内より
 ・半三角縁二神二獣鏡
 ・勾玉
 ・棗玉
 ・管玉
 ・石釧
 ・車輪石 など
 棺外より
 ・景初三年銘画文帯四神四獣鏡
 ・鉄刀
 ・鉄剣
 ・鉄斧
 ・鉄鎌 など
東槨から、
 棺内より、
 ・三角縁龍虎鏡
 ・画文帯四神四獣鏡(2面)
 ・甲
 ・冑
 ・勾玉
 ・棗玉
 ・管玉
 ・鍬形石
 ・水晶製大型切子玉(日本最大) など
 棺外より、
 ・鉄槍
 ・鉄鉾
 ・鉄鏃 など
以上が発見されている。

<参考>
風土記 上 中村啓信監修訳注 角川ソフィア文庫
イワツツノオ - Wikipedia
経津主神 - Wikipedia

日葉酢媛命 - Wikipedia