今回は銅鐸に刻まれている「シカ」をテーマとして古代を探る。いつから鹿はいたか。また銅鐸はいつからつくられたのだろうか。次の流れで紹介していく。
・長崎県佐賀貝塚からの鹿笛の出土
・銅鐸がつくられた年代
・銅鐸に刻まれたシカ
①:伝・香川県出土銅鐸(国宝)
②:大阪府恩智銅鐸(外縁付鈕2式銅鐸)
③:静岡県悪ケ谷銅鐸(袈裟襷文銅鐸)
④:兵庫県気比3号銅鐸
⑤:鳥取県泊銅鐸
⑥:三重県磯山銅鐸
・大野手比売(おほぬてひめ)
・銅鐸の起源
・まとめ
まずは古代にそもそも日本に鹿はいたのか。
■長崎県佐賀貝塚からの鹿笛の出土
長崎県によれば、長崎県対馬市の「佐賀貝塚」からの出土品に
・縄文時代の鹿角製の鹿笛
が出土している。
佐賀貝塚は対馬島中部、峰町佐賀に所在する。
縄文時代中期(5000年~4000年ほど前)から後期(4000年~3000年ほど前)の遺物を中心とする遺跡。
下記参考サイトにて鹿角製の鹿笛が画像にて紹介されている。
参考①:長崎県、長崎県の文化財より:長崎県の文化財
参考②:九州大学/音楽考古学の報告書を読む では楽器の観点から古代が語られている
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2794861/p071.pdf
続いて、銅鐸はいつから存在していたのだろうか。
■銅鐸がつくられた年代
銅鐸は紀元前2世紀頃から現れ約400年間にわたってつくられた。
1世紀末ごろにその大きさが巨大化したとされる。
銅鐸はこれまでに600個程度が発見とされており、うち100個ほどになんらかの「絵」が描かれているとされる。
■銅鐸に刻まれたシカ
以下のサイトや文化遺産オンラインをもとに紹介していく。
出典先:東京国立博物館・【トーハク考古ファン】より、銅鐸に描かれたシカ
東京国立博物館において、保有している銅鐸のうち10個にシカが描かれているとされる。
①:伝・香川県出土銅鐸(国宝)
香川県から出土したとされる。
時代は弥生時代(中期)の前2世紀~前1世紀の銅鐸。
6つの区画内に
- 人物
- 鳥
- イノシシ
- 昆虫
- 爬虫類
- 狩人に狙われたシカ
が描かれているという。
この銅鐸と似た銅鐸が見つかっている。
・神戸市桜ヶ丘遺跡出土の5号銅鐸、4号銅鐸
・谷文晁所蔵銅鐸
※江戸時代の画家・谷文晁(たにぶんちょう)所蔵と伝えられており、拓本と模写だけが残る
・香川県出土銅鐸
の順でつくられたと考えられている。
↓はe国宝、香川県出土銅鐸
②:大阪府恩智銅鐸(外縁付鈕2式銅鐸)
大阪府八尾市恩智中町から出土。
時代は弥生時代の中期、前2世紀~前1世紀のものとされる。
銅鐸の吊り手の部分にはカエルが描かれる。
そして裾(すそ)には魚の群れ、その反対側にシカの群れが描かれている。
↓は文化遺産オンライン、大阪府八尾市恩智中町3丁目出土の銅鐸
③:静岡県悪ケ谷銅鐸(袈裟襷文銅鐸)
静岡県浜松市北区細江町、悪ヶ谷から出土。
時代は弥生時代の後期・1世紀~3世紀のものとされる。
6区画の下段の区画に
- シカ(雄)
- 鳥
が描かれているという。
↓は文化遺産オンライン、静岡県浜松市北区細江町中川(悪ヶ谷)出土の銅鐸
④:兵庫県気比3号銅鐸
兵庫県豊岡市気比から出土。
3号銅鐸では吊り手に、少なくとも17頭のシカが描かれているとされる。
下記e国宝、によって兵庫県豊岡市気比の銅鐸を調べると、
・1号銅鐸:
- 身ではシカ列(中央部には人物らしきもの)
- 鈕(吊り手)に爬虫類らしきものが対面
・2号銅鐸:
- 鈕にシカ
・3号銅鐸:
- 鈕にはシカ
- 身にはトンボ、魚、スッポンのような生物、人物
・4号銅鐸:
- シカ列と人物
が表現されている。
↓は文化遺産オンライン、兵庫県豊岡市気比出土の銅鐸
次の同笵関係(鋳造に同じ鋳型を使用)があるとされる。
2号銅鐸は
・島根県加茂岩倉5号銅鐸
3号銅鐸は
・大阪府東奈良遺跡で発見された鋳型から製作されているとする
4号銅鐸は
・加茂岩倉21号銅鐸
・伝大阪府陶器銅鐸
・伝福井県井向銅鐸
↓はgooglemap、兵庫県豊岡市気比
⑤:鳥取県泊銅鐸
絵物語風に
- 人物
- 生き物
- 10頭のシカ
が描かれている。
同じ鋳型を使いまわすと文様などが不鮮明となるとされる。
それを相互補完できるような関係により銅鐸の作成順が判別できるよされる。
初鋳~五次鋳までが下記とされる。
・初鋳:神戸市桜ヶ丘出土一号流水文銅鐸
・二次鋳:兵庫県西宮市松下町
・三次鋳:滋賀県新庄出土品
・四次鋳:辰馬考古資料館蔵
・五次鋳:鳥取県泊出土品
↓文化遺産データベース、流水文銅鐸、二次鋳にあたる 兵庫県西宮市松下町 の紹介ページ
⑥:三重県磯山銅鐸
出土地は三重県鈴鹿市磯山町。
時代は弥生時代の中期、前2世紀~前1世紀とされる。
裾の部分に
- シカ
- イノシシ
が列をなして向かい合う場面が描かれたもの
↓は文化遺産オンライン、三重県鈴鹿市磯山町出土の銅鐸
■大野手比売(おほぬてひめ)
大野手比売は古事記の国産みにおいて小豆島の別名として登場。「おおぬでひめ」の「鐸」(ぬで / ぬて /ぬりて)は銅鐸のことであると考えられている。
小豆島にはかつて大鐸村(おおぬでそん)という村があった。
1890年2月15日 、町村制施行に伴って大鐸村が発足、小豆郡肥土山村、笠ヶ瀧村、黒岩村、小馬越村の合併によって誕生したとされる。1955年にさらなる合併により土庄町となって消滅した。
↓はgooglemap、小豆島の三五郎池からは銅鐸が出土したとされる
■銅鐸の起源
中国の春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)、中国江蘇省無錫市の地方国家である「越」の貴族墓(紀元前470年頃)から、日本の弥生時代の銅鐸に形が似た原始的な磁器の鐸(たく)が出土している。
日本における銅鐸の出土地域は
兵庫、島根、徳島、滋賀、和歌山が41点~56点出土しており多い。そのほか、北九州・佐賀の吉野ケ里遺跡、そして淡路島からも出土している。
↓はwikipedia、銅鐸のページ、歴史の箇所にて越の貴族墓の件および国宝・重要文化財の銅鐸が紹介
■まとめ
・銅鐸は中国の越にて原形のような磁器の鐸が出土している
・日本では紀元前2世紀頃から現れ約400年間にわたってつくられた
・1世紀末ごろにその大きさが巨大化
・3世紀になって突然つくられなくなった
・古事記の大野手比売(おほぬてひめ)は小豆島を示す
中国の三国時代魏や呉への遣使によって古代の鏡がもたらされた。
本記事では銅鐸に刻まれたシカを扱った。
また過去記事では淡路の松帆銅鐸を扱った。
これらから、既に紀元前4世紀~紀元前2世紀頃には小豆島、淡路島に鋳造技術を持つ民族がいたと考えられる。
以下は銅鐸や銅鏡に関する過去記事のリンクを再掲。
↓は淡路の五斗長垣内遺跡と松帆銅鐸を扱った回
shinnihon.hatenablog.com↓は呉の238年と244年の神獣鏡
shinnihon.hatenablog.com↓は魏の235の方格規矩四神鏡
↓は魏の239年の鏡
shinnihon.hatenablog.com
↓は魏の240年の鏡
shinnihon.hatenablog.com↓は天王日月をテーマとした三角縁神獣鏡