シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

156.ローマ文化の影響を受けた新羅、新羅に到達していたアラブ人

新羅とはなんだったか。ローマ文化の影響、扶余族の建国、出雲やスサノオとの関連性を含めて紹介する。

■「ローマ文化王国ー新羅」の歴史的意義
「ローマ文化王国ー新羅」は由水常雄氏の著作で2001年に発刊された。ガラス工芸の研究家である由水氏は「ローマングラス」に着目、ローマ文化の新羅への影響を研究した。これが朝鮮半島における古代史への認識を大きく転換させることになる。

シルクロード
中国がシルクロードの中心地であったのに対し、新羅は東側に伸びる幹線路の起点ともいえる。一方、日本の正倉院はその新羅を通じた東側に向かう幹線路の終着点といえるだろうか。ちなみにシルクロードとは中国で生産される絹織物の貿易に由来し、紀元前2世紀から15世紀半ばまで活躍したユーラシア大陸の交易路網のこと。その始まりは、紀元前114年頃に漢王朝中央アジアに進出、未開の地を平定していったことによる。19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、著書「China」で使用したのがシルクロードと呼ばれるようになったきっかけとされる。

■天馬塚古墳公園
新羅にわたってきたものが天馬塚古墳から出土している。天馬塚古墳公園は韓国の慶州にある。1973年公園に造成された。3万8千坪の広さの中に23基ほどの陸墓が密集する。このうち天馬塚(チョンマチョン)は500年前後の王墓とされる。1973年4月6日から12月4日までにかけて発掘された。11,500点余の副葬品が出土した。グラス、王冠などがローマの影響を受けている。また、ペガサスとの関連性もみられる。下記②、③のサイトから確認ができる↓
参考:
①:ローマ文化王国ー新羅
②:天馬塚 古墳公園 | 釜山旅行 | 釜山 旅行 観光ガイド|釜山、慶州| 釜山チャーター車、慶州 観光タクシー
③:新羅の古代文化

新羅とは
紀元前57年に建国された国。ただし、その紀元前57年の建国は造作とする説もある。古い時代に韓国に文字がないはずとの指摘もあり神話部分と史実が混在しているのではないかとする説もある。503年に正式な国号が「新羅」となる。それまでは「斯蘆(しろ、サロ)」と呼ばれた時代があった。日本側の呼称も「ぎ」という「城」を示す音を入れて「しらぎ」へと呼称を変更した経緯を持つ。

朝鮮半島三国時代
新羅は辰国に出自を持つ。その後辰国は辰韓、弁漢にわかれていく。辰韓新羅となり、弁韓伽耶へと姿を変えていく。朝鮮半島は多数の民族が入り乱れる。朝鮮半島三国時代には、高句麗百済伽耶新羅といった国々が存在した。

■脱解尼師今(だっかいにしきん)
新羅の王に倭人との関りがあるとされる。脱解尼師今は新羅の第4代王。在位は57年~80年とされる。倭国の東北一千里にある多婆那国で誕生したとされる。誕生に卵生神話を持つ。丹波国但馬国などが想定されるが、丹波国が有力。

■57年に何が起こっていたか
新羅の脱解尼師今が即位した(とされる)とき。倭奴国王が後漢に使いを送り、光武帝より「漢委奴国王」の金印を授かったとき。なお後漢の皇帝は明帝(在位:57年-75年)に変わる。

■アラブの古い記録
新羅に様々な物を運んだのはアラブの商人たちだろうか。それともキリスト教などとかかわりの深い中東の民族が逃れて渡来していたのだろうか。新羅とアラブ人の関係は記録に残っているだろうか。845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが「王国と道路綜覧」という本を編纂した。その内容によれば、新羅という国が中国の向かい側にあり、イスラム人が定着しており、産物として金や人参、織物の生地、鞍飾、陶器、剣などがあることが記されているとする。

新羅38代・元聖王
在位は785年~798年。陵墓前に武人像がある。アラブ人風の風貌である。例えば、
次の個人の方のサイトで元聖王の武人像が確認できる↓
参考:掛陵 元聖王

新羅の中国への朝貢
そのほか、新羅の中国との関りを見る。西晋の時代には280年、281年、286年において新羅(当時は辰韓)は西晋朝貢したとされる。辰韓諸国の代表としての朝貢とされる。前秦の時代に新羅の名前が歴史書に現れるのは、377年、新羅高句麗前秦朝貢したとされる。また382年に新羅国王の楼寒が前秦朝貢したようだ。

新羅のローマから中国重視への政策転換
新羅は独自の政策を持つ国であった。その新羅がローマ世界との交流を断ち、中国中心となっていく。その大きな方向転換は仏教の導入を始めた法興王(在位:514年~540年)の時代とされる。

倭の五王新羅
倭国においてもう少し時代が進んだ倭の五王の時代はどのような関係となるだろうか。賛、珍、済、興、武は倭の421年~502年にかけて中国(宋、斉、梁)へ遣使を行う。なお大王名は対中国外交向けと考えられる。賛の時代には称号を受けていない。珍の438年には「安東将軍 倭国王」を受ける。451年の済、478年の武(雄略)には使持節都督に「新羅」を含む。このあたりで中国側から日本の新羅への支配が認められたことになるのだろうか。

■アクセサリーからみた倭と新羅
倭から見た新羅とアクセサリー品と関りに関しての講演内容がまとまっている。五世紀前半頃にあたる時代の内容とのこと。総研大国立歴史民俗博物館准教授 高田貫太氏の講演内容だ。興味がある方は下記、PDFとなるがご参照を。
参考:https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/kouen/pdf/21_02.pdf

スサノオ新羅の関連性
日本の神話ではスサノオ新羅から日本に来たような記述がある。しかし、実際は国を乱した須佐之男命が天照によって新羅エリアに追放された。追放は紀元前750年~紀元前700年の間の頃だろうか。その後スサノオが日本に戻ったかは不明。

スサノオとスサ
イラン高原エラム王国の都、スサがある。エラム王国は前7世紀に滅ぼされた。しかしスサはアケメネス朝ペルシア帝国の政治上の都として繁栄を続けた。下記サイトではスーサ(シューシュ)の都市遺跡からの発掘品のひとつでペガサスとスーサが関連があることがわかる。一方で、新羅にもペガサスとの関連性がある。もしかするとスーサの伝承をつなぐペルシャ(あるいはアラブ)の人びとが、新羅の源流と関連を持つ「須佐之男」をスサと呼んだのかもしれない。
参考:神谷武夫とインドの建築 http://www.kamit.jp/33_iran/xshush_2.htm

■まとめ
新羅がアラブ人との関りが「ローマングラス」を通じて示された
新羅と天馬(ペガサス)に関連がある
・ペルシアのスーサとペガサスに関連性がある
スサノオ新羅と関わりがある

<参考>
・ローマ文化王国ー新羅 由水常雄
・世界史が教えてくれる!あなたの知らない日本史
エラム - Wikipedia
・世界史の窓:スサ
新羅 - Wikipedia
脱解尼師今 - Wikipedia
漢委奴国王印 - Wikipedia
倭の五王 - Wikipedia
シルクロード - Wikipedia