日本書紀によれば伊都国はかつてイソ国と呼ばれていたという。そしてこのイソ国は、古代ユダヤ人が渡来していものと考えられる。ここでは、伊都国とイソの音韻の接点となる、五十(イソ)の名前のつく古代の人物を取り上げる。次の流れで紹介していく。
・犬養五十君(いぬかいのいきみ)
・崇神天皇(すじんてんのう)・御間城入彦五十瓊殖命(みまきいりびこいにえのすめらみこと)
・垂仁天皇・活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)
・五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)
・五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)
・伊都国と王
・ヤマト国と伊都国との関係に関する考察
・吉備津彦命・彦五十狭芹彦命
・彦五瀬命(ひこいつせのみこと)
・五十日真黒人(いかがまくろうど)
■犬養五十君(いぬかいのいきみ)
犬養五十君は、飛鳥時代の人物。
壬申の乱(672年)において大友皇子(弘文天皇)の将として活躍した。
しかし乱に敗れ、殺されたという。
過去記事にて、伊都国がイソ国であり、イソは古代イスラエルを示すことを検証、犬養五十君が登場した。
↓は伊都国がイソ国であることを紹介した回
犬養五十君を遡ると、つぎの人物がみられる。
■崇神天皇(すじんてんのう)・御間城入彦五十瓊殖命(みまきいりびこいにえのすめらみこと)
第10代天皇。
諱は御間城尊(ミマキノミコト)。
日本書紀で御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)。
欠史八代ののちの、実在性のある人物と考えられている。
紀元前148年~紀元前30年の人物と設定されている。
ただし実在なら、3世紀後半から4世紀前半頃の人物と推定されている。
崇神天皇の父は開化天皇である。
一方、母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。
伊香色謎命は物部氏の遠祖、大綜麻杵命(おおへそき)の娘。
また御間城尊の異父の兄に「彦太忍信命(磐之媛の祖)」がいる。
崇神(すじん)天皇は日本書紀で御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)とも。
このハツクニシラススメラミコトと設定される人物はもう一人おり、それが初代・神武天皇である。
なぜハツクニシラススメラミコトが2人いるのか。
神武天皇という人格は不在だが、実際は天之御中主之神(紀元前800年頃、鹿児島出身)とヤマトタケル(紀元前2世紀後半~3世紀、推定で熊本出身)を混成した人格と史実とされる。
崇神天皇は、名前から推測すれば、任那から来たのかもしれない。
↓は崇神天皇について取り上げた回
■垂仁天皇・活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)
第11代天皇。
日本書紀で活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)と「五十」が入る。
五十狭茅でイサチであるが、五十をイソと読めば、イソサチとなり、海幸、山幸の海幸と同じ名前となる。
日本書紀の垂仁二年是歳・都怒我阿羅斯等では、伊都都比古(いつつひこ)が登場、次のエピソードがある。
穴門(あなと、長門国の西南部の古称。関門海峡付近と考えられる)に至る時。
その国に人がいた。
名は伊都都比古(いつつひこ)。
伊都都比古はいう。
吾(われ)はこの国の王(きみ)なり。
吾をおいてふたりの王はいない。
ゆえに他のところに行きなさい。
しかしその人となりをみるに王ではないと知った。
そして出雲の国を経て、ここに至った。
このとき崇神天皇(すじんてんのう、みまきいりびこ)の崩御にあった。
そして活目天皇(いくめのすめらみこと、垂仁)に仕えて三年(みとせ)に逮(な)ったという。
伊都都比古は長門(山口)にいたものの、伊都国(イト国)由来の人物の象徴ではないかと推測する。
↓は垂仁天皇について紹介した回、伊都都比古が登場
都怒我阿羅斯等・ツヌガアラシトは日本書紀の原文をたどると「額角有人」。
額に角が有る人で、ヒラクリティをつけた人物と推測される。
↓古事記の建平鳥(タケヒラトリ)を解読し、ヒラクテリ(ヒラクリティ)との関連を示した回
■五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)
第11代・垂仁天皇の皇子。
古事記で
・印色入日子命
とされる。
日本書紀、垂仁記天皇・39年で五十瓊敷命が茅渟(ちぬ)の菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)にいて1000本の剣をつくったとされる。
垂仁天皇には皇后が二人いる。
前の皇后が狭穂姫命。
後の皇后が日葉酢媛命である。
この後の皇后である日葉酢媛命と垂仁天皇の子が
・五十瓊敷入彦命
・景行天皇(大足彦忍代別尊・おおたらしひこおしろわけのみこと)
・倭姫命
らである。
五十瓊敷入彦(イニシキイリヒコ)は読み方を替えるとどうなるか。
五十でイソ・イト、瓊敷はニシキだとすると
糸・錦となる。
イソ、イト、伊都とのつながりを示すものとも考えられる。
■五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)
第11代・垂仁天皇の皇子。
石田君らの祖とされる人物。
古事記で五十日帯日子王(いかたらしひこのみこ)。
母は、日本書紀では苅幡戸辺の子とされ、古事記では苅羽田刀弁の子とされる。
五十日足彦命からみて、その家系は
・祖父が御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)で崇神天皇
・父が活目入彦五十狭茅(イクメイリヒコイサチ)で垂仁天皇
そして、
・五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)
と続いていることになる。
■伊都国と王
魏志倭人伝において、伊都国に関する記述がある。
代々、王がいた場所とされる。
主な内容を列挙すると、
・伊都国の場所:末廬國から東南へ陸を500里
・長官:爾支(にし、じき)
・副官:泄謨觚(せつもこ、せつぼこ、せもこ)、柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ、へくこ)
・家:1000余戸
・代々、王がいた
・皆女王国に従属
・帯方郡の使者が往来した際に足を止める所
という。
■ヤマト国と伊都国との関係に関する考察
五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の系統から景行天皇が生まれ、そしてヤマトタケルの誕生へとつながる。
ヤマトタケルは九州、熊本にあったと推定されるヤマト国の人物。
ヤマトタケルには当然、父がいる。
その人物に設定されているのが景行天皇(大足彦尊、大帯日子淤斯呂和氣天皇とも)である。
この景行天皇の頃からイリ(五十系)系から、タラシ(足、帯)に転じる。
そのタラシに転じるのは、五十日足彦命の頃からみられる。
・五十日足彦命:別名が五十日帯日子王
・景行天皇:大足彦尊、大帯日子淤斯呂和氣
・成務天皇:稚足彦尊、若帯日子天皇
・仲哀天皇:足仲彦尊、帯中日子天皇
・神功皇后:大足姫命、息長帯比売命
などと、それぞれに足や帯の名前や別名がある。
魏志倭人伝では伊都国が邪馬台国(実際はヤマト国)に代々従っていた記述がある。
ある段階でヤマト国と伊都国に婚姻関係が結ばれているのだろう。
以上、文献上においてヤマト国と伊都国との関係性がみられるのは、特に、垂仁天皇と日葉酢媛命の子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の関係である。
この「五十」を示す系統は伊都国を示す王統を示す子孫の系統だろう。
「五十」はさらに遡ることができるだろうか。
■吉備津彦命・彦五十狭芹彦命
吉備津彦命(きびつひこのみこと)は
第7代・孝霊天皇の皇子。
四道将軍の1人。
四道と四道将軍の関係は次の通り。
・北陸:大彦命
・西道:吉備津彦命
・丹波:丹波道主命
・東海:武渟川別
この西道に派遣されたのが吉備津彦命とされる。
↓は四道将軍について取り上げた回
吉備津彦命の名前は、
日本書紀で
・彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)
・吉備津彦命(きびつひこのみこと)
古事記で
・比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)
・大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)
とされる。
彦五十狭芹彦命・ヒコイセサリヒコに、「五十」の名前が入る。
垂仁天皇・活目入彦五十狭茅にも、「五十狭茅」でイサチ、イソサチがみられ、この吉備津彦の五十狭芹(イサセリ)、イソセリは類似する。
イソとイトが同じであったとすれば、次に示す彦五瀬命も関連があるものと推測される。
■彦五瀬命(ひこいつせのみこと)
神武東征に従軍、その際に賊の矢にあたって薨じたという。
父は鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)、母は玉依姫(タマヨリビメ)。
長男で、神武天皇は弟とされる。
↓古代の3女神を取り上げ、玉依姫や彦五瀬を紹介した回
神武天皇は紀元前800年頃の天之御中主と西暦300年頃のヤマトタケルの人格や史実の合成とされる。
3人とも海神系。
弟橘姫はヤマトタケルの妻、走水で入水し、海を鎮め、ヤマトタケルらを救った人物。
この彦五瀬命が神武東征に従っているとされるので、実際はヤマトタケルの東征に参加した人物の象徴である可能性も。
なお、和歌山市の三社参りのひとつ、竈山神社は彦五瀬命と関りがみられる。
■五十日真黒人(いかがまくろうど)
五十日足彦の子孫とされる人物。
丹哥府志(たんかふし)・江戸時代後期に編纂された丹後国の地誌などで、五十日真黒人が登場するという。
五十日真黒人は丹波国・与謝郡・三重郷の長者で、現在の京丹後市大宮町五十河(いかが)に居住したいう。
市辺押磐皇子の子の億計(仁賢天皇)、弘計(顕宗天皇)を匿ったとされる人物。
五十日真黒人と億計、弘計の関係については別回にて。
↓はgooglemap、大宮町五十河(いかが)
以上、イトとイソ、そして五十のつながりを追った。
<参考>
・犬養五十君 - Wikipedia
・崇神天皇 - Wikipedia
・垂仁天皇 - Wikipedia
・五十瓊敷入彦命 - Wikipedia
・五十日足彦命 - Wikipedia
・吉備津彦命 - Wikipedia
・伊都国 - Wikipedia
・仲哀天皇 - Wikipedia
・神功皇后 - Wikipedia
・彦五瀬命 - Wikipedia