シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

479.景行天皇の二人の皇后と子供のオウス、オオウス、オオスワケ、そしてもうひとりのオオス

ヤマトタケルの父である景行天皇には二人の皇后がいる。播磨稲日大郎姫、そして八坂入媛命である。この二人から3人のオウス、オオウス、オオスワケが生まれる。そして時代を経て、後の時代にもう一人のオオスが現れる。これはなぜだろうか。次の流れで紹介していく。

・姉の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)
・妹の伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)
・姉または妹の印南別嬢(いなみのわきいらつめ)
八坂入媛命の家族関係
・オウス、オオウス、オオスワケ
古事記のもっとも古い写本を持つ大須観音
・もう一人のオオス

播磨稲日大郎姫を基準として展開していく。

■姉の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)

日本武尊ヤマトタケルの母。

景行天皇52年の薨去とされる。

名前は
・針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)
・印南別嬢(いなみのわきいらつめ)
とも。

第7代・孝霊天皇の皇子である若建吉備津日子の女(むすめ)とされる。
この若建吉備津日子は吉備臣らの祖であるという。

播磨稲日大郎姫は妹に伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)がいる。

古事記日本書紀の両方で、姉の播磨稲日大郎姫の子に、

大碓命(おおうすのみこと、大碓皇子とも)
小碓命(おうすのみこと、日本武尊

がいるという。

なお、古事記によると、姉の播磨稲日大郎姫には上記の子のほかに、

櫛角別王(くしつのわけのみこ)
・倭根子命(やまとねこ)
神櫛王(かむくしのみこ)

らがいるという。

続いて、播磨稲日大郎姫の妹、伊那毘能若郎女について。

■妹の伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)

古事記にいう、播磨稲日大郎姫の妹。

伊那毘能若郎女は景行天皇の妃とされる。

日本書紀では、播磨稲日大郎姫の名前に異説があり「稲日稚郎姫」であるという。

名前上、

日本書紀の姉の播磨稲日大郎姫の異説:稲日稚郎姫
古事記の妹:伊那毘能若郎女

は非常に近い名前とされる。

また、古事記日本書紀に加え、播磨国風土記でも似た人物名が登場する。

■姉または妹の印南別嬢(いなみのわきいらつめ)

播磨国風土記、賀古郡・印南郡条に記述される人物。

印南別嬢(いなみのわきいらつめ)の父と母について。

父は比古汝茅(ひこなむち)

丸部臣(わにべのおみ)の祖とされる。

母は吉備比売(きびひめ)。

さきほどの、

日本書紀の姉の播磨稲日大郎姫の異説の名前:稲日稚郎姫
古事記の妹:伊那毘能若郎女

のいずれかと同じ人物と考えられている。

いずれにしても、播磨国風土記の賀古郡・印南郡が印南別嬢(いなみのわきいらつめ)を記し、姉か妹のいずれであったかは議論があるとしても、播磨国にイナミ、もしくはイナビ出身の女性がいたのだろう。

ここまで、

景行天皇の皇后の播磨稲日大郎姫、つまり日本武尊ヤマトタケルの母方の家系、

・母の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)
・母の妹の伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)

を扱った。

続いて、景行天皇のもう一人の皇后、八坂入媛命について。

八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)

古事記では八尺之入日売命(やさかのいりひめのみこと)とある。

美濃出身と考えられている。

美濃は壬申の乱の勝敗を決した重要な地域でもある。

この美濃、岐阜の発展について。美濃では中国の新の時代の鏡、コインの貨泉が出土している。

岐阜では弥生時代の終り頃から前方後方形の墳丘墓が出現。

そして古墳時代初期は前方後円墳ではなく、前方後方墳がつくられた。

ヤマトタケルの東征は西暦300年前後(±20年ほどか)とされる。

中国の新が滅びた後にも渡来があり、縄文人と融合したのだろう。

そして古墳時代、熊本付近のヤマト国・ヤマトタケルの東征が起こったと考えられる。

↓は美濃の古墳時代について取り上げた回

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八坂入媛命の家族関係

八坂入媛命は第12代・景行天皇の皇后である。

父は八坂入彦命
この八坂入彦命は第10代・崇神天皇の皇子とされる。

八坂入媛命の子には、7男6女の子供がいるという。

成務天皇
五百城入彦皇子
・忍之別皇子
稚倭根子皇子
・大酢別皇子
・渟熨斗皇女(渟熨斗姫命)
・渟名城皇女
・五百城入姫皇女
・麛依姫皇女
五十狭城入彦皇子
・吉備兄彦皇子
・高城入姫皇女
・弟姫皇女
がいるという。

■オウス、オオウス、オオスワケ
「オオス」で類似する音韻の人物について。

八坂入媛命側の系統は非常に興味深いものがある。

注目すべきは、4点ある。

まず1点目は景行天皇の次が成務天皇となっていることである。
美濃系統である、ともいえる。

つぎに2点目、

五百城入彦皇子には「イオキ」が入る。

また、3点目、

五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこと)には、五十でイソが入る。
おそらく、イソサチ、海幸を意識した名前と思われる。

イオキ、イソはイスラエル出身の人物名と考えられる。

↓はイオキ部の名のつく人物、廬城部連武彦(いおきべのむらじたけひこ)を取り上げた回

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最後に4点目。

オウスもオオスも類似、いったん同じと考えると、景行天皇周辺には3人のオオスがいる。

オウス、オオウス、オオスワケである。
なぜ類似する名前が3人いるのだろうか。

まずはヤマトタケルこと小碓命(おうすのみこと)
母が播磨稲日大郎姫

そしてヤマトタケルの兄の大碓命(おおうすのみこと)
大碓皇子ともされる。
ヤマトタケルとは双子であるという。
この「うす」の名前の由来は、景行天皇二年三月に記述されている。
双子が生まれた際に、天皇が怪しんで、碓(うす、臼)に向かって叫んだことによるという。

この臼に関する話、そしてこのヤマトタケルに双子の兄がいるというのは疑わしい。

ヤマトタケルの誕生は景行天皇12年であるとされる。

しかし、双子のはずの兄の大碓命景行天皇4年に美濃に遣わされたとする話がある。
これは双子であるという話と矛盾するとされる。

「オオス」の由来は何か別のものにあると思われる。

そして、景行天皇のもう一人の皇后、八坂入媛命の子にいる大酢別皇子(おおすわけのおうじ)がいる。

古事記のもっとも古い写本を持つ大須観音

なお、大須といえば愛知県の大須観音である。

愛知県の大須観音、正式名称は北野山真福寺寶生院で、この真福寺本「古事記」が最古とされている。

大須観音はもともとは岐阜県羽島市大須にあった。

↓は現存するもっとも古い古事記の写本を持つ真福寺本こと大須観音について紹介した回

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美濃ではなく尾張となるが、継体天皇の夫人に尾張目子媛(おわりめのこひめ)がいる。

継体天皇の時代には、ブナイ・メナシェ(メナシェの子供たち)の音韻が散らばっている。
尾張目子媛について紹介した回

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もう一人のオオスの名を持つ人物について。

■もう一人のオオス

仁賢天皇は第24代天皇で、

・億計天皇(おけのすめらみこと)
・大石尊(おおしのみこと)
・意祁命(おけのみこと)
・意富祁王(おおけのみこ)
・大脚(おおし)
・大為(おおす)
という名前がある。

この、大為(おおす)が「オオス」と入っていることは注目すべきだろう。

字は
・嶋郎(しまのいらつこ)
である。

市辺押磐皇子の子である
・億計王(おけのみこ、後の第24代・仁賢天皇
・弘計王(をけのみこ、後の第23代・顕宗天皇
は兄弟である。

仁賢天皇が第二子、顕宗天皇が第三子。
弟、兄の順に天皇となっている。

この「おけ」について。

兄の仁賢が意富祁王(おおけのみこ)。
弟の顕宗天皇が袁祁王(をけのみこ)。
「おけ」は「王家」を意味するのではないか。

兄のおけには「意富」も残る。
つまり、伊都国(イト、イソがなまったものがイト)とも関連があるものと推測される。

↓は嶋郎(しまのいらつこ)、仁賢天皇が登場した回

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古事記を編纂した太安万侶は多氏(おおし、おほし、おおうじ)の子孫と推測されている。

多氏は魏志倭人伝にある一大率、伊都国の子孫なのかもしれない。

あくまでも推測にすぎないが、可能性としては高いのではないか。

↓は太安万侶について取り上げた回

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