富雄丸山古墳とウズベキスタン・サマルカンドとのつながりがニュースとなった。これにて歴史の大きな空白が埋まっていくことになるだろう。次の流れで紹介していく。
・ウズベキスタンで富雄丸山古墳から出土の鏡と同じものが見つかった
・ソグディアナとサマルカンド
・猿田彦と阿曇比羅夫
・安康天皇(あんこうてんのう)とソグド人
・中央アジアから渡来したと推測される賀茂氏
・高知県の秦氏と賀茂氏
■ウズベキスタンで富雄丸山古墳から出土の鏡と同じものが見つかった
富雄丸山古墳の築造は4世紀後半(つまり300年代後半)とされる。
2024年、3枚の青銅製の鏡がみつかったという。
そのうち、最も古い鏡は虺龍文鏡(きりゅうもんきょう)。
大きさは直径で19cm、紀元前後のものと推定されていて、中国で製作されたと考えられている。
この鏡が、ウズベキスタンのサマルカンド州にあるコクテパ墳墓(紀元前1世紀)でも同形の鏡(直径18.7cm)が出土しているという。金の装飾品、人骨から、地位の高い女性が埋葬されていたとみられている。
↓は富雄丸山古墳について取り上げた回
■ソグディアナとサマルカンド
ソグディアナは、中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間に位置し、サマルカンドを中心的な都市とするザラフシャン川流域地方の古名とされる。
また、このソグディアナは中国の史書では粟特(ぞくとく)と記された。
古事記にて、猿田毘古神がヒラブ貝に手をかまれて溺れた際に生まれた神々にこおソグディアナの音韻が眠らせてあるようだ。
・底度久(ソコドク)
・都夫多都(ツブタツ)
・阿和佐久(アワサク)
の3神について。
粟特(ゾクトク)はアワトクとも読めるため、底度久(ソコドク)、阿和佐久(アワサク)などが近い。残りの「都夫多都(ツブタツ)」はブッダの音韻を残したのだろう。
↓は底度久御魂とソグディアナの関連について示した回
■猿田彦と阿曇比羅夫
さきほどの3神の誕生に関わる猿田彦はヒラブ貝に手をかまれて死ぬ。
ソグド人は隊商のことをイラン語系のキャラヴァンではなく「サールト」と呼んだとされる。
これは、サンスクリット語のサールタに由来するという。
つまり、猿田彦はサールタ、隊商などとつながりのある言葉となる。
一方、ヒラブ貝のヒラブは阿曇比羅夫をモチーフとして創作されている可能性が高い。
阿曇比羅夫とは。
志賀海神社で紹介した阿曇浜子より後、阿曇一族で活躍した人物に阿曇比羅夫(あづみのひらふ)がいる。
661年(斉明天皇7年)、百済の救援軍の将軍となり百済へと渡った。
662年(天智天皇元年)、百済の王子・扶余豊璋とともに百済へと渡る。
そして663年、白村江の戦いに参加。
その際に戦死したとされる。
長野県安曇野市・穂高神社にて安曇連比羅夫命として祀られている。
ヒラブ貝は、反対から読むと「海部ラビ」とも読める。
このあたりが、歴史の謎の部分が、なぜかソグド人によってつながっているのだ。
第20代天皇。
穴穂皇子。
諱は穴穂。
父は允恭天皇で、安康天皇は第二皇子。
生没年は401年~456年とされる。
いずれも父は允恭天皇、母は忍坂大中姫である。
この「安」「康」は淡海三船がつけたものであるが、名前に安、康が入っているのは非常に興味深い。
なぜなら、ソグド出身の人物に
・サマルカンド出身は康、
・ブハラ出身は安などと表すとされるからである。
ちなみに、ソグド人はイラン系の農耕民族と考えられている。
↓は間人について考察した回
賀茂氏はアジスキタカヒコネを祀る。
つまり、祖先がアジスキタカヒコネであるということにほかならない。
このアジスキタカヒコネが持っていた剣に神渡剣(カンドのツルギ)がある。
これがサマルカンドの「カンド」を残しているのだろう。
葵祭(賀茂祭)のアオイなども、サマルカンドが青の都と呼ばれたこととも関連するだろう。
さらに、八咫烏(ヤタガラス)は賀茂氏のことと考えられる。
ヤマトタケルの東征の先発隊などであったのだろう。
鴨長明の「無名抄」「方丈記」に猿丸大夫の墓を伝える記事があるという。
猿丸大夫の「猿丸」もサマルカンドのサマルが残っている。
↓は中央アジアからの渡来、そしてスキタイの出自をにおわすアジスキタカヒコネ
南葛城の遺跡は鴨氏ゆかりの地とされる。このあたりも、ヤマトタケルの東征後、鴨氏は南葛城付近に住んだのだろう。このあたりがヤマト王権の発展とも関わってくる。
↓南葛城の遺跡は鴨氏ゆかりの地
■高知県の秦氏と賀茂氏
高知県には、秦氏(蘇我氏)、そして賀茂氏とも関りがある。
高知県の西部に幡多郡があるのだから、北部九州から四国西部に移動していることはわかりやすい。そして高知県中部には物部川や蘇我氏と関わる地名なども。
↓は波多国造や味鋤高彦根神をまつる土佐神社について取り上げた回
以上、富雄丸山古墳とウズベキスタン・サマルカンドが虺龍文鏡(きりゅうもんきょう)でつながることが考古学的に証明がなされた。
これを機に、サマルカンドからの渡来があったことを古事記、日本書紀などの文献からまとめていたものを紹介した。
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