安曇氏に関わる人物や古墳などをとりあげ、古代に何が起きていたかを紐解く。安曇についての後編。また渡来した民族の出自を推定する。次の流れで紹介していく。
・阿曇連百足・播磨国風土記・揖保郡・石海の里
・阿曇連百足・播磨国風土記・揖保郡・浦上の里
・阿曇連頬垂(あづみのむらじつらたり)
・阿曇比羅夫(あづみのひらふ)
・阿曇比羅夫とヒラブ貝とサールト
・ワダツミのワタとは何か
・穂高古墳群
・松本市の弘法山古墳
・古代の西洋や中央アジア情勢
・出自のまとめ
・命名の対比構造
前編は下記を参照のこと。
今回は播磨国風土記の記述を紹介。
・揖保郡・石海(いはみ)の里、
・揖保郡・浦上の里
に百足の記述がみられる。
揖保郡・石海(いはみ)の里では次の通り。
石海というゆえんは難波長柄豊前天皇(なにわながらのとよさきのすめらみこと)の世に、この里の中に百便(ももだる)の野があり、百枝(ももえ)の稲生(いねお)ひき。
阿曇連百足は、その稲を取ってたてまつった。
天皇は勅(みことのり)し、この野を墾って田をつくるべしといった。
そして阿曇連太牟(あづみのむらじたむ)を遣わし、石海の人夫(よぼろ)を召して墾らしめた。
ゆえに、野の名前を百便(ももだる)といい、村の名前を石海とつけた。
揖保郡・浦上の里では次の記述がみられる。
浦上の里の地名のゆえんを示す箇所にて。
昔、阿曇の連百足ら、先に難波の浦上におり、のちにこの浦上に遷って来た。
ゆえに、本居(うぶすな、生まれ育った本拠地)として名とした。
■阿曇比羅夫(あづみのひらふ)
志賀海神社で紹介した阿曇浜子より後、阿曇一族で活躍した人物に阿曇比羅夫(あづみのひらふ)がいる。
661年(斉明天皇7年)、百済の救援軍の将軍となり百済へと渡った。
662年(天智天皇元年)、百済の王子・扶余豊璋とともに百済へと渡る。
そして663年、白村江の戦いに参加。
その際に戦死したとされる。
長野県安曇野市・穂高神社にて安曇連比羅夫命として祀られている。
なお、穂高神社の「御船祭り」は毎年9月27日に行われる。
阿曇比羅夫の命日であるとされている。
■阿曇連頬垂(あづみのむらじつらたり)
657年、西海使小花下(にしのみちのつかいしょうけげ)・阿曇連頬垂(あづみのむらじつらたり)、小山下(しょうせんげ)・津臣傴僂(つのおみくつま)が百済より帰り、
・駱駝(ラクダ):一つ
・驢(うさぎうま):二つ ※ロバのこと
をたてまつったとされる。
↓はラクダの献上について取り上げた回
■阿曇比羅夫とヒラブ貝とサールト
過去記事にて阿曇比羅夫を取り上げた。
ヒラブ貝に噛まれた猿田彦が溺死するというつながりから、
・阿曇比羅夫
・猿田彦
が関連する。
底度久御魂(そこどくみたま)などの3神とつながり、中央アジア・サマルカンドを中心とするソグディアナという地域とつながることを推定した。
ソグド人は隊商のことをイラン語系のキャラヴァンではなく「サールト」と呼んだとされる。これは、サンスクリット語のサールタに由来するという。
猿田毘古神がヒラブ貝に手をかまれて溺れた際に生まれた
・底度久(ソコドク)
・都夫多都(ツブタツ)
・阿和佐久(アワサク)
の3神についても、
・中国でソグディアナを示す粟特(ぞくとく)
・粟特の別読みのアワトク
・ブッタ
の文字がパズルのように散りばめられて配置されている。
また、サルタヒコについても、サールタ(?)の音韻として物語上のつなぎの役割を果たさせたのではないだろうか。
↓は阿曇比羅夫と底度久御魂について考察した回
ソグド人はイラン系のオアシスの農耕民族。
↓はwikipedia、ソグド人
■ワダツミのワタとは何か
かつて仏教国家であったホータン、漢名・和田市のワタから来ていると推定される。
穂高(ホダカ)のホタもホータンの「ホ」「タ」と関連する可能性がある。
なお、ソグディアナ・サマルカンドはソグド人。
蘇民将来伝承の「巨旦将来」はホータン(ホータンはコタンとも)と関係があるもと推定される。
↓は蘇民将来に登場するコタン将来のコタンがホータン(コタン)であることを示した回
仏教の大乗仏教はインドから中央アジアに伝わり、やがて中国、百済、日本へと伝わった。
↓はオアシス都市、ホータン王国と仏教について記した回
古墳から金冠が見つかっている。
その金冠の源流は中央アジア・遊牧民国家である。
金冠が出土する年代は、中央アジア出身の人びとの渡来が起きているとみてよいのではないだろうか。
↓は金冠の源流を示した回
新沢千塚126号墳は5世紀後半の築造とされる。
この126号墳で出土したガラス皿はローマ帝国領内で見つかったローマ・ガラス(2世紀に作成)とほぼ一致することが明らかとなっている。
5世紀後半という時期の隔たりは、ササン朝ペルシャに運ばれたのち、シルクロード経由でもたらされたものと考えられている。
↓は新沢千塚126号墳を取り上げた回
↓奈良市のHPにて正倉院にある「白瑠璃碗(はくるりのわん)」と呼ばれるガラスの器は、ペルシャなどの西方で作られたものが、シルクロードを通って、日本へもたらされたのではないかと言われている。
正倉院を待たずして、それよりも先の少なくとも5世紀後半以前にローマ・ガラス製品がもたらされていた。
そして単に物がはこばれただけでなく、西方由来の民族も渡来している。
↓奈良市・サマルカンド市について
■穂高古墳群
そもそも古墳の被葬者を特定することは困難である。
しかし、単純に穂高氏と穂高神社との距離、その名称から穂高古墳群であると仮定する。
穂高古墳群の築造は遅く600年以降に始まるという。
推古天皇(在位:593年~628年)の時期にあたる。
↓はgooglemap、D-1号墳、魏石鬼窟(ぎしきのいわや)
https://maps.app.goo.gl/Pb8FT6NAW2nXqH7x5
↓はgooglemap、E-6~E-8にあたる穂高古墳群狐塚墳
https://maps.app.goo.gl/wz9QsuRmpp997m6NA
■松本市の弘法山古墳
安曇野市と松本市は同じ長野県中部(中信地方)である。
長野県最古の古墳は松本市弘法山古墳で、3世紀後半の築造とされる。
形式は前方後方墳。
全長は66m。
竪穴式石室状の礫槨(れきかく)が見つかっている。
獣帯鏡:1面
鉄剣:3点
銅鏃:1点
鉄鏃:24点
鉄斧:1点
やりがんな:1点
ガラス小玉:700点以上
また、遺骸の腰の部分から水銀朱がみつかっている。
出典:松本市 史跡 弘法山古墳
https://www.city.matsumoto.nagano.jp/uploaded/attachment/58775.pdf
■古代の西洋や中央アジア情勢
中央アジアの都市名と日本に渡来したと推定される民族をまとめる。
なお、西洋や中央アジア状勢としては
・エフェソス公会議によってネストリウス派が異教と断定されたこと
・寒冷化の影響を受けて北方民族の南下、また中央アジアのオアシスが移動、オアシス都市が廃墟となっていく
・突厥の東進などを受けて各民族(スキタイ、ソグド人など)が東に押された
これがスキタイ、ソグド人など中央アジアの諸国(当時は民族のまとまりか)に影響
していると思われる。
■出自のまとめ
これまでの調査から渡来した民族を推定する
・ソグディアナ・サマルカンド(現・ウズベキスタン)
・鴨氏:スキタイである。馬を伴ってやってきたとすると5世紀代以前の渡来
・底度久御魂:粟特、ソグド人である、阿曇比羅夫はソグド人の可能性がある
・ホータン(コタン)・和田市(現・中国)
・穂高:ホタ、諏訪地方の安曇氏、ホダカ
・秦氏:蘇民将来伝承の巨旦将来のコタン
・海神・ワタツミ
・安曇磯良:イソラエビスより、古代イスラエル、ソグド人と混血している可能性がある、日本では各地に移り住んだ
以上のように推定した。
■命名の対比構造
なお、命名には次の対比構造がみられる。
・和田(ワダツミ)に対しての穂積(ホヅミ)
・出雲(イズモ)に対する安曇(アヅミ)
以上のようにネーミングしたのではないだろうか。
<参考>
・風土記 下 現代語訳付き 中村啓信 監修・訳注
・百足足尼命 - Wikipedia
・ホータン王国 - Wikipedia
・高エネルギー蛍光X線分析による古墳出土ガラス皿の分析(トピック) — SPring-8 Web Site