海人・安曇族(あづみ)と関連のある阿曇比羅夫(あづみのひらぶ)について。サルタヒコと関わる底度久御魂(そこどくみたま)など3神の名前から古代に渡来した民族とその場所をひも解く。次の流れで紹介していく。
・阿曇比羅夫(あづみのひらふ)
・猿田毘古神と比良夫貝
・比良夫貝とは何か
・底度久御魂が意味するものは何か
・ソグディアナは粟特(ぞくとく)
・ソグディアナと底度久御魂の関係
・ソグド人とは
■阿曇比羅夫(あづみのひらふ)
志賀海神社で紹介した阿曇浜子より後、阿曇一族で活躍した人物に阿曇比羅夫(あづみのひらふ)がいる。
661年(斉明天皇7年)、百済の救援軍の将軍となり百済へと渡った。
662年(天智天皇元年)、百済の王子・扶余豊璋とともに百済へと渡る。
そして663年、白村江の戦いに参加。
その際に戦死したとされる。
長野県安曇野市・穂高神社では安曇連比羅夫命として祀られている。
穂高神社の「御船祭り」は毎年9月27日に行われる。
阿曇比羅夫の命日であるとされている。
なお、阿曇連一族は684年(天武天皇13年)、八色の姓で第3位の宿禰姓を得たとされる。
百済の滅亡~日本書紀成立までの約60年間のなかの、古代史における第一級の重要人物である。
そしてこの比羅夫の「ヒラブ」が古代史を解く手がかりとなる。
■猿田毘古神と比良夫貝
「比羅夫」つながりにて比良夫貝について。
猿田毘古神は伊勢の阿邪訶(あざか)の海で漁をしていた時に比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れる。
海に沈んでいる時に
・底度久御魂(そこどくみたま)
・都夫多都御魂(つぶたつみたま)
・阿和佐久御魂(あわさくみたま)
の三柱の神が生まれたという。
■比良夫貝とは何か
比良夫貝はタイラギではないかとする説や、貝の化け物ではないかとも考えられている。
この「比良夫貝」を漢字で反対から読むと「カイフラビ」となる。
海部のラビを意味するものと推定される。
海部とは海人部、または 海部(あまべ)で大化の改新以前に、海辺に住み、産物を中央に貢納した職業部である。
また、ラビとは何か。
ユダヤ教はラビの称号を持つ人びとによってユダヤ教が指導された。
一般にラビ・ユダヤ教(Rabbinic Judaism)と呼ばれた。
長野県の諏訪、そして安曇族にまつわる伝承をもとに考えると、阿曇比羅夫は信仰も深く、また武人であったと考えられる。
ただし、白村江の戦い頃は既に仏教が取り入れられている。
また、仏教、なかでも大乗仏教をもたらした民族は、歴史的に中央アジアの遊牧民と考えられる。
このような複雑な信仰の背景や中央への関りといった状況は長野・諏訪に残る歴史にまさに一致する。
■底度久御魂が意味するものは何か
猿田毘古神がヒラブ貝に手をかまれて溺れた際に生まれた
・底度久(ソコドク)
・都夫多都(ツブタツ)
・阿和佐久(アワサク)
の3神について。
結論として、ソグド人やソグディアナの音韻を眠らせていると考えられる。
まずはソグディアナを説明し、その後その根拠を示す。
■ソグディアナは粟特(ぞくとく)
ソグディアナは中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間に位置。
サマルカンドを中心的な都市とするザラフシャン川流域地方の古名。
現在はおよそウズベキスタン共和国。
ソグディアナは中国の史書では粟特(ぞくとく)と記された。
アケメネス朝(紀元前550年 - 紀元前330年)滅亡後、アレクサンドロス大王(マケドニア王国の)に征服された。
アレクサンドロス大王の死後、南に位置するバクトリアの地方州とされたという歴史がある。
8世紀、アラブ人によって征服され、イスラム教を受け入れた。
↓wikipedia、ソグディアナ
■ソグディアナと底度久御魂の関係
では、ソグディアナと底度久御魂がどうつながるのか。
まず、底度久(ソコドク)だけでもゾクトクに近い。
また粟特(ゾクトク)を「アワトク」と読ませる。
そして、阿和佐久と都夫多都から阿和、都、久の文字を拾うと「あわとく」が成立する。
この時の残りの文字は佐、夫、都、多となる。
このうち「夫、都、多」を使うと「ブッダ」となる。
よって、
・粟特(ゾクトク)はアワトク
・ブッダ
これらの歴史を3神の神の名の音韻や文字に埋め込んだと推定される。
■ソグド人とは
ソグド人については以下のとおりである。
・ソグド語とソグド文字を使用
・ゾロアスター教を信仰
・2世紀から3世紀にかけて中国に仏教を伝えた
・6世紀から7世紀にはマニ教、キリスト教(ネストリウス派)を中国、テュルク人に伝えたという。
今回はサルタヒコの溺死原因である比良夫貝と阿曇比羅夫の名前から「ヒラブ」でつなげると、ザラフシャン川流域地方の古名(サマルカンドが中心的な都市)であるソグディアナ、そしてソグド人が浮かび上がる。
サルタヒコがハブとなっているのはサマルカンドのサ(マ)ルの音韻が眠っているためだろうか。
なお、猿田彦と猿丸太夫の関係性は見いだせず、不明である。
■阿邪訶(あざか)とは
上述の通りで、猿田毘古神は伊勢の阿邪訶(あざか)の海で漁をしていた時に比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れたというエピソードによって記したという阿邪訶とは。
延喜式神名帳では「阿射加神社三座」とあり3社あったとされる。
現在では、
・阿射加神社:三重県松阪市小阿坂町
・阿射加神社:三重県松阪市大阿坂町
がある。
伊勢神宮とは40km程度の距離。
皇太神宮儀式帳、倭姫命世記に次の内容がみられるという。
↓はwikipedia、阿射加神社
↓はgooglemap、三重県松阪市小阿坂町、小阿坂阿射加神社
■皇太神宮儀式帳の記述
皇太神宮儀式帳は804年に神祇官に提出。
これに、倭姫命が藤方片樋宮において天照大神を奉斎していた際、垂仁天皇の使者・阿倍大稲彦命(あへのおおしねひこのみこと)が阿佐鹿悪神(あさかのあらぶるかみ)を平定したとあるという。
■倭姫命世記の記述
倭姫命世記は768年の神護景雲2年・禰宜五月麻呂の撰と伝わるが、実際は鎌倉時代中期の編纂とされる。
阿佐加之弥子(阿坂の峰)に伊豆速布留神(いつはやふるのかみ)がおり通行の邪魔をしていた。その心を和ませるため、山上に神社を造営した。そして外宮祀官・度会氏の祖である大若子命(おおわくごのみこと)に祈らせたとする。
また同書では、
阿佐賀山に荒神(あらぶるかみ)がいた。
倭姫命の五十鈴川上之宮(現・内宮)への巡行を阻むためにかつて阿坂国(当地一帯の古称とされる)を平定した天日別命(あめのひわけのみこと)の子孫である大若子命(おおわくごのみこと)にその荒悪神(あらぶるかみ)を祀らせ、そして神社を建立したという。
■そのほかのアサカ
福島県に安積郡(あさかぐん)がみられる。
アヅミと書いてアサカと読む。
古代の郷にイヌ郷、ワニコ郷がみられるのは興味深い。
ヤマトタケルの東征の北端と考えられる。
↓安積郡
「アサカ」を紹介したが、アヅミも同等とする場合、熱海(アタミ)や厚見(アツミ)などはその変化形であり、関連があるとされる。
厚見の厚見氏は中国・楽浪郡の豪族の後裔、王仁(ワニ)が始祖であるという。
<参考>
・海人部 - Wikipedia
・テュルク系民族 - Wikipedia
・阿射加神社 - Wikipedia
・延暦儀式帳 - Wikipedia
・厚見氏 - Wikipedia