任那(ミマナ)や第10代・崇神天皇を紹介し、日本書紀に秘められた謎を明らかにしていく。次の流れで紹介していく。
・任那(ミマナ)
・額角有人とツヌガアラシト
・安羅(あら)
・崇神天皇(すじんてんのう)
・御間城尊の兄・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)
・御間城尊の妻と子供
・即位10年9月・四道将軍
・即位10年9月・御真木入日子はや
・即位10年9月の倭迹迹日百襲姫命と大物主神
・即位65年7月の蘇那曷叱知(そなかしち)の派遣
■任那(ミマナ)
不明~562年まで存在したとされる朝鮮半島における地名。
広開土王碑、日本書紀に任那(ミマナ)に関する記述がみられ実在する。
「伽耶」と同等、あるいは包含関係にある地名か。
↓では任那復興会議を取り上げた
↓では百済が475年に一時的に滅亡、任那の久麻那利(熊津)を譲った件を取り上げた
■額角有人とツヌガアラシト
「日本書紀」で伝わる古代朝鮮の人物。
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)とも。
福井県の「敦賀市」にも関連する加羅国の王子とされる。
「日本書紀」の垂仁の条にて、
「御間城天皇の世に、額に角のある人が一つの船に乗って、越国の笥飯の浦に着いた。ゆえに、そこを名づけて角鹿という。」
とある。
漢文の原文をたどると「額角有人」とある。
額(ひたい)に「角(つの、または、かど)」のあるものをつけた人となっている。
↓牛をテーマとした回にて都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)を紹介
頭ではなくわざわざ「額」と記している。
額につける角のあるものとは何か。
のちの修験道・山伏の頭巾(ときん)やユダヤ教のヒラクリティーが一致する。
また山伏が利用した角笛ことショーファーについて。
長崎県対馬市峰町三根サカドウから角形金具が出土している。
リコーダーに似た穴が先端と後部に空いているため笛と思われる。
弥生時代の後期、1世紀~3世紀のものである。
↓サカドウ遺跡から出土の角形金具
↓は頭襟(ときん)、天狗と頭襟の関連性は、まだ縄文人とペルシャ人の混血が進んでいなかったためだろう
ja.wikipedia.org
↓はショーファー
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)。
それは額に角のあるものをつけた安羅からやってきた使徒だったのかもしれない。
■安羅(あら)
安羅は3世紀から6世紀中頃にかけて現在の韓国の咸安郡に存在していた国。
任那や伽耶を構成する国の1つ。
国名からしてアッラー=ヤハウェに由来すると考えられる。
伽耶は古代のインドの言葉gayaからとっていると思われる。
淡路(あわじ)もアワド(アヨーディヤー)から来ていると思われる。
淡路からはイスラエルの古代祭祀遺跡、製鉄遺跡、銅鐸、そして「伝」扱いだがナフタリ族の指輪が出土している。
↓gayaについて紹介した回
↓ナフタリ族とフタナジマについて紹介した回
■崇神天皇(すじんてんのう)
第10代天皇。
諱は御間城尊(ミマキノミコト)。
日本書紀では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)。
史実性のあると人物考えられている。
紀元前148年~紀元前30年と設定されている。
ただし実在なら3世紀後半から4世紀前半頃の人物と推定されている。
崇神天皇の父は開化天皇である。
一方、母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。
伊香色謎命は物部氏の遠祖、大綜麻杵命(おおへそき)の娘。
御間城尊の異父の兄に「彦太忍信命(磐之媛の祖)」がいる。
御間城入彦五十瓊殖の名前の「五十瓊殖」について。
五十はイソとも読む。
殖は「ゑ」。
あわせると本来は五十瓊殖は「イソニエ」であった可能性も。
↓はwikipedia、崇神天皇
■御間城尊の兄・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)
日本書紀では「彦太忍信命」。
古事記では「比古布都押之信命」。
とされる。
彦太忍信命は孝元天皇(第8代)の皇子。
彦太忍信命は「武内宿禰」の父または祖父とされる。
↓は武内宿禰について扱った回、朝鮮半島や紀伊国と関りが深い設定のある人物
■御間城尊の妻と子供
御間城尊は御間城姫と結婚、皇后とした。
子供には
・活目尊(後の垂仁天皇)
・倭彦命(やまとひこのみこと)
らがいる。
■即位10年9月の四道将軍
四道将軍はわざうたの直前に登場する。
四つの道、北陸、東海、西道、丹波の将軍を遣わす内容にて登場。
・北陸:大彦命
・西道:吉備津彦命
・丹波:丹波道主命
・東海:武渟川別
とされる。
古い時代の道の整備を示したほか、一方で古代の墳丘墓や方形周溝墓、四隅突出型墳丘墓などの建設を暗示していた可能性もあるとみる。
↓四隅に関する陰陽道との関係を示唆した回
■即位10年9月の御真木入日子はや
即位10年9月に次の童歌(わざうた)が残る。
建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反乱を少女が次のように予言する。
御真木入日子(みまきいりびこ)はや
御真木入日子 はや
己(おの)が緒を
窃み弑(し)せむと
後つ戸(しりつと)よ い行き違(たが)ひ
前つ戸(まへつと)よ い行き違(たが)ひ
窺(うかか)はく
知らにと
御真木入日子はや
大毘古命が少女に問う。
「汝がいうことは、何のことだ」と。
すると少女は答える。
吾(あ、わたし)は何も言っていない。
ただ歌詠み(うたよみ)をしているだけだ。
と。
「はや」とは何か。
「はや」を転置すると「やは(ヤハ)」となる。
↓はわざうたを紹介した回で 御真木入日子はや を紹介
即位10年9月では重要な事項が立て続けに登場する。
そしていくつかの出来事を紹介した後、
箸(はし)に陰(ほと)をつきて薨(かむさ)りする。
そしてのちにその墓をなづけて「箸墓(はしのみはか)」といったとする。
箸墓古墳の所在は奈良県桜井市箸中。
築造は241年~260年頃とされる。
ちなみにヒミコ(日向)には弟にオオヒノミコト(大日之命)がいたとされる。
このあたりの人物名がうまく切り取られ、日本書紀では奈良の王朝が続いていているように描かれている。
ヒミコは九州の人物。
奈良ではない。
少なくとも魏志倭人伝の時代の邪馬台国は九州のヤマト国。
のちにヤマトタケルが東征後(おそらくペルシャ人を従えて)、奈良の大和国が徐々に建国されていった。
↓は九州のヒミコとオオヒノミコトについて紹介した回
■即位65年7月の蘇那曷叱知(そなかしち)の派遣
任那国が蘇那曷叱知)を派遣、朝貢した。
任那は筑紫国から二千余里、海を隔てて鶏林(しらき)の西南にあり。
日本書紀第五巻が終わるが、蘇那曷叱知の話は垂仁天皇へと続く。
↓は蘇那曷叱知(そなかしち)について扱った回
<参考>
・崇神天皇 - Wikipedia
・彦太忍信命 - Wikipedia
・伊香色謎命 - Wikipedia
・大綜麻杵命 - Wikipedia
・蘇那曷叱知 - Wikipedia