シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

350.垂仁天皇①~阿羅斯等と比売語曽社~

第11代・垂仁天皇を紹介し、日本書紀に秘められた謎を明らかにしていく。次の流れで紹介していく。

・垂仁元年・山辺道上陵
・垂仁二年十月・纏向の都
・垂仁二年是歳・任那の国名の由来と新羅の争いの始まり
・垂仁二年是歳・都怒我阿羅斯等
・垂仁二年是歳・任那の国名の由来
・垂仁二年是歳・阿羅斯等と比売語曽社

■垂仁元年・山辺道上陵

日本書紀では
元年・十月、御間城天皇(みまきのすめらみこと)山辺道上陵(やまのへのみちのへのみささぎ)に葬られたとする。

宮内庁では渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)山辺道上陵であるとし、その被葬者は「景行天皇」と治定している。

山辺道上陵は4世紀中頃~4世紀後半の築造と推定されている。

経緯として
・1697年、江戸幕府がで崇神天皇景行天皇いずれかの陵であると比定
・その後の1864年、修陵の際に石枕が出土、景行天皇陵に改訂されていった。
という経緯がある
参考①:-天皇陵-景行天皇 山邊道上陵(けいこうてんのう やまのべのみちのえのみささぎ)
参考②:渋谷向山古墳 - Wikipedia

■垂仁二年十月・纏向の都

日本書紀では
垂仁・二年十月にて、
纏向に都をつくる。
これを珠城宮という。

としている。

纏向の古代都市について。
いつ頃建設されたか。

桃の種が出土しており、これからは推定西暦135年~230年。
土器の付着物からは推定西暦100~200年頃に存在していた可能性が示されている。

ヒミコの239年の遣使以前に奈良の土地に土木技術を持つ人びとがいたことになる。

↓纏向の古代都市から発掘物から推定年代を紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

↓は纏向型前方古墳を紹介、221年~240年にはつくられていた

shinnihon.hatenablog.com

■垂仁二年是歳・任那の国名の由来と新羅の争いの始まり

崇神天皇65年7月・任那から来朝していた蘇那曷叱知(そなかしち)であったが、是歳(ことし)、「国へ還る」と言った。

蘇那曷叱知に赤絹100匹を持たせ、任那王へ賜ることとなった。

帰国の際に天皇から任那王へ赤絹100匹が贈られた。
しかし、新羅に奪われたという。
これを原因とし、任那新羅の争いが始まったとされる。

新羅が物を奪う話は
・垂仁二年是歳 のほか
神功皇后47年4月条
・応神14年是歳条
にもみられる。

↓は蘇那曷叱知(そなかしち)について取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

■垂仁二年是歳・都怒我阿羅斯等

蘇那曷叱知の紹介のあと、一(ある)にいわく、で都怒我阿羅斯等が紹介される。

このため、都怒我阿羅斯等は蘇那曷叱知ではないかとする説もみられる。

その内容とは。

御間城天皇(みまきのすめらみこと、崇神天皇のこと)の御世。
額に角有る人が船に乗り越国(こしのくに)、笥飯浦(けひのうら)に泊まった。
そこを名付けて角鹿(つぬが)という。

いづれの国の人か」と問うと、
「意富加羅(おおからのくに)の王の子。
名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)
またの名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)
日本国(やまとのくに)に聖皇(ひじりのきみ)がいると聞いてやって来たという。

穴門(あなと、長門国の西南部の古称。関門海峡付近と考えられる)に至る時。
その国に人がいた。
名は伊都都比古(いつつひこ)

伊都都比古はいう。
(われ)はこの国の王(きみ)なり。
吾をおいてふたりの王はいない。
ゆえに他のところに行きなさい。

しかしその人となりをみるに王ではないと知った。
そして出雲の国を経て、ここに至った。

このとき崇神天皇(すじんてんのう、みまきいりびこ)崩御にあった。
そして活目天皇(いくめのすめらみこと、垂仁)に仕えて三年(みとせ)に逮(な)ったという。

ここまでを整理。

・蘇那曷叱知と都怒我阿羅斯等は同じ人物では
・伊都都比古は穴門の王(当然、豊前も含む)
・伊都都比古は伊都国(イト国)の象徴か
・伊都都比古は日本の王ではないことを記す
・都怒我阿羅斯等は意富加羅(おおからこく)の子
・意富は「おお」と読むが、イトとも読め、伊都国と加羅国はつながりがあった可能性が高い(イト国とは実際は豊前の秦王国のことである)
・都怒我阿羅斯等は活目天皇(御間城入彦)に三年仕えた(つかまっていた?)

■垂仁二年是歳・任那の国名の由来

天皇都怒我阿羅斯等に問う。
「汝は国に帰りたいと思うか」
都怒我阿羅斯等は「願わくば」と答えた。

そして垂仁は言う。

汝は道に迷わず早く来ていれば先の皇(みかど)に仕えていただろう。
これをもって汝のもとの国の名前を改め、御間城天皇(みまきのすめらみこと)の御名(みな)をとって汝の国の名前とせよ」と。

これより赤織(あかおり)の絹を阿羅斯等に賜り国に返した。
その国を弥摩那(みまな)というのはこれゆえである。

そして阿羅斯等は絹を持って国の郡府におさめた。
新羅の人が兵(いくさ)を起こし赤絹を奪った。
これが新羅任那がうらむ原因となった。

■垂仁二年是歳・阿羅斯等と比売語曽社

あるにいわく。
都怒我阿羅斯等が自国任那にいたときのこと。
黄牛(あめうじ)に農具を背負わせていたときのこと。
黄牛がいなくなってしまう。

そしてある(むら)にとどまっていたときのこと。
阿羅斯等はある老夫(おきな)に会う。
老夫がいうには牛はこの群家の中にいるという。
そして牛を食べてしまったという。
老夫は阿羅斯等に次のアドバイスをする。

郡公らが来て「牛の直(あたい)は何物(なに)を得たいのか」と問われれば、「郡内(むら)の祭(いわ)いまつる神を得たい」と言いなさい。
阿羅斯等は老父(おきな)の教えに従った。

その祭る神とは。
「白い石」であった。
白い石を牛の直(あたい)に授け、寝(ねや)の中に置いた。

その神石(いし)は美麗(かほよ)童女(おとめ)となった。
ここに阿羅斯等は喜んでまぐわいをしようとした。
しかし童女は消えていなくなった。

阿羅斯等は妻に問う。
童女はどこにいったのだ」と。
妻に答える。
「東(ひむがし)の方(かた)に向(い)にき」。
阿羅斯等は童女を求め、遠く海を渡り、日本国(やまとのくに)に入る。

童女は難波(なにわ)、または豊国(とよくに)の国前郡(みちのくちのくに)に至りにいたって、比売語曽社(ひめごそのやしろ)の神となったとされる。

日本書紀の阿羅斯等の牛に関する話と極めて類似する話が古事記の応神紀・天之日矛にみられる。このとき阿加流比売神天之日矛の妻となる。
阿加流比売神は名前に「赤ルビー」が挿入されている。
※アカルヒメは単に太陽信仰、日の光を示した名前であったかもしれない。あるいは真偽不明・氏族と宝石の関係は諸説あるが、もしユダヤ人と関連があった場合は赤メノウ、ユダ族の可能性(?)

以上をまとめると次のようになる。

阿羅斯等は牛に関する信仰を持つ祭祀を行う直(あたい)

意富加羅国の王子であった。
額に角のある物(ヒラクティーの可能性)をつけた安羅国アッラーを信じる宗教を持つ)使徒では。
妻から東の国に関する情報を入手。
アラシトはやまとの国へと入る。
豊前難波のつながりを比売語曽社を通じて記している。

<参考>
大分県比売語曽社 - Wikipedia
・大阪:比売許曽神社 - Wikipedia