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178.箸墓古墳より早い221年~240年頃から始まる纏向型前方後円墳の時代

箸墓古墳はおおよそ250年頃の建造とされる。実はこれより早い大型の古墳が纏向内に複数存在する。箸墓古墳を含めた221年頃~300年頃までの纏向型古墳を6つ紹介する。また同じく古い西殿塚古墳天理市)、その近くの東殿塚古墳の土器に刻まれたゴンドラ船の線刻画を紹介する。あわせて後半で古墳と墳丘墓の違いを紹介し知識を深めることができる。次の流れで紹介してく。

・1.纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)
・2.纒向勝山古墳(まきむくかつやまこふん)
・3.纒向矢塚古墳(まきむくやづかこふん)
・4.ホケノ山古墳(ほけのやまこふん)
・5.箸墓古墳(はしはかこふん)
・6.東田大塚古墳(ひがいだおおつかこふん)
・(参考)7.西殿塚古墳
・(参考)8.参考:東殿塚古墳

■1.纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)
奈良県桜井市太田字石塚に所在し、纒向古墳群に属する古墳。纏向遺跡内では最古の可能性が高いとされ、221年~240年の建造。全長約96m、後円部径約64mの纏向型前方後円墳。↓の画像中、右下の古墳。

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■2.纒向勝山古墳(まきむくかつやまこふん)
奈良県桜井市東田町字勝山に所在し、纒向古墳群に属する古墳。201年~220年頃の建造とされる。全長約115m、前方部長約45m、後円部径約70m。
※年輪年代測定では210年頃、土器編年では300年前後とされる。
↓の画像中、上の古墳。

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■3.纒向矢塚古墳(まきむくやづかこふん)
桜井市東田町字矢塚に所在し、纒向古墳群に属する古墳。221年~240年頃の建造とされる。全長約96m、前方部長32m、後円部径約64m。
↓の画像中、左下の古墳。
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■4.ホケノ山古墳(ほけのやまこふん)
奈良県桜井市箸中にある古墳。形状は帆立貝形古墳の纒向型前方後円墳
221年~240年頃の建造とされる。墳丘長は80m。 

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■5.箸墓古墳(はしはかこふん)
奈良県桜井市箸中にあり241年~260年頃の建造とされる。墳丘長は278m、高さは30mの前方後円墳倭迹迹日百襲姫命陵とされている。

注釈:卑弥呼の死亡推定時期は247年~249年頃。卑弥呼の名前は記紀では「倭迹迹日百襲姫命」と表現されておりこの点は一致する。しかし邪馬台国は九州。また魏志倭人伝で記述のあった「径百余歩」は144m程度と換算でき、箸墓は約2倍程度のため大きすぎると考えられる。東征はヤマトタケル日本武尊)による200年代後半~300年代前半、そののち奈良に遷都したと考えられる。※渋谷向山は建造時期は321年~340年。ヤマトタケルの父は景行天皇であり、年代も、人物の比定とも正しい可能性が高い。
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■6.東田大塚古墳(ひがいだおおつかこふん)
奈良県桜井市東田字大塚に所在し、纒向古墳群に属する古墳。箸墓と同じく241年~260年頃の建造とされる。全長約120m、前方部長約50m、後円部径約68mの纒向型前方後円墳とされる。

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■(参考)7.西殿塚古墳
奈良県天理市中山町に所在する。261年~280年頃の建造とされる。墳丘長は約230m、後円部の高さは約16mとされる。実際の被葬者は不明。宮内庁により「衾田陵(ふすまだのみささぎ)」として第26代継体天皇皇后の手白香皇女(たしらかのひめみこ)の陵とされている。

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■(参考)8.参考:東殿塚古墳
西殿塚古墳のすぐ近くに東殿塚(奈良県天理市)がある。埴輪から4世紀初め頃の築造と推定されている。墳丘長139メートルで、後円部と前方部の比は、1:1.5。造り出し的な祭祀遺構が見つかっている。埴輪片が大量に出土し、楕円形円筒埴輪が復元された。高さ約64cm、最大口径約50cmとされる。その埴輪の下部からゴンドラ型の船の形(7本の櫂、14人で漕ぐ大型船)を描いた埴輪が見つかっている。他の土器として、山陰、近江、東海など他地域の土器が出土している。被葬者の交流の範囲の広さを示すものと考えられる。

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↓は船の線刻絵画

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<予備知識編>
■①:弥生墳丘墓
従来は「弥生墳丘墓」とみられてきた前方後円形をなす墳墓を、古墳として積極的にみなす概念。例えば纒向石塚古墳は後円部径と前方部長の比率が2:1となる典型的な纏向型前方後円墳とされる。

■②:弥生時代の墓制
土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓、甕棺墓、支石墓、方形周溝墓、墳丘墓、楯築墳丘墓、四隅突出型墳丘墓などがある。

■③:弥生墳丘墓と古墳の違い
弥生墳丘墓は弥生時代の前期に方形周溝墓、方形台状墓、円形周溝墓が出現、これを基本とする。後期には円形台状墓が加わる。これを経て古墳を定義している。具体的には箸墓古墳以降のすべての墳丘墓を「古墳」と呼ばれる。纏向内の古墳群は箸墓以前の古墳も存在するが同じエリア内にある墳丘墓のため、「纏向型前方後円墳」と称して古墳扱いしている。

■まとめ
・纏向以前か以後かで古墳かそうでないかが分かれる。
・主に大型の前方後円墳出現をもって古墳時代としたということ

■感想
・221年~240年頃から前方後円墳ができており、それが邪馬台国(熊本周辺)ではない奈良県に存在
奈良県天理市の「東殿塚古墳」の線刻画に描かれているゴンドラ船はどこの国の船だろうか
前方後円墳に限らなければ方形周溝墓、四隅突出型古墳などはさらに時代を遡る

<参考>
・詳説 日本史図録 山川出版社 第9版
巨大古墳の築造年代1(No.162)/藤井寺市
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館[大和の遺跡/古墳時代]
箸墓古墳 - Wikipedia
東田大塚古墳 - Wikipedia
纒向型前方後円墳 - Wikipedia
纒向古墳群 - Wikipedia
弥生墳丘墓 - Wikipedia
四隅突出型墳丘墓 - Wikipedia