垂仁元年に記述される「山辺道上陵」は当初、垂仁天皇(御間城天皇)の陵、「渋谷向山古墳」を候補地とされていた。しかしその後「景行天皇陵」と治定された古墳である。その渋谷向山古墳から出土した「石枕」をテーマとして紹介する。次の流れで紹介していく。
※いくつかの見解については文献や考古学的見地以外の私見を交える
・創世記と石枕の関係
・渋谷向山古墳から出土した石枕
・石枕の種類
・石枕造付石棺
・馬蹄形石枕
・石枕造付石棺のみられる古墳
・馬蹄形石枕のみられる古墳
■創世記と石枕の関係
創世記28章11節。
ヤコブが硬い石を枕にして眠るという記述がみられる。
やがてこの「石枕」が神と契約を結ぶための石となった。
世界史的にみて、これを根拠としユダヤ教徒において「石枕」を神聖なものとして扱われていったと推測される。
■渋谷向山古墳から出土した石枕
渋谷向山古墳の所在は奈良県天理市渋谷町。築造は4世紀中葉の321年から340年頃ではないかとされる。
この時期の年代はヤマトタケルの東征後、かつヤマトタケルの死亡後と思われる。
被葬者は東征の影響を受けているのではと推測される。
出土した石枕は碧玉製であるという。
碧玉はナフタリ族のシンボルの可能性あり。ただし碧玉は縄文人も好んで使用していた。
↓はwikipedia、渋谷向山古墳、碧玉製の石枕
↓はwikipedia、渋谷向山古墳
淡路からナフタリ族の指輪が出土している(学者が立ち会っていないので伝扱い)。
↓は古事記のイヨのフタナジマについて紹介した回
shinnihon.hatenablog.com
↓はナフタリ族渡来後の淡路島の歴史
■石枕の種類
以下、wikipediaを出典とする。
石枕の種類としては大きく「石枕造付石棺」と「馬蹄形石枕」があるとされる。
■石枕造付石棺
石枕造付石棺は
・舟形石棺
・割竹形石棺
の床の部分に後頭部の形をした窪みをつけたもの。
4世紀から5世紀(古墳時代前期から中期)の西日本の古墳に見られるという。
■馬蹄形石枕
馬蹄形石枕は滑石、砂岩、凝灰岩、蛇紋岩などの石、岩を加工、やや扁平な馬蹄形に整え、さらに中央を後頭部の形に窪ませたもの。
5世紀から6世紀(古墳時代中期から後期)の東日本の古墳に多く見られるとされという。
特に常総(千葉県、茨城県)の地域でよく出土するという。
古墳時代の後期に皇族の墓葬に用いられた六角墳が千葉では4世紀末(300年代後半)に登場する(海保大塚古墳)。
千葉では伊都国からヤマト王権に従った将軍級の伊都許利(イツコリ)が派遣されている。東征後、やや時間をおいてからの派遣だったのだろうか。
↓は六角墳について取り上げた回
千葉県の芝山古墳群の殿塚、姫塚は6世紀後半の造営とされる。
出土している武人埴輪の風貌がまさにユダヤ人である。
↓は千葉県芝山古墳群について紹介した回。
古墳時代の終末期。
世界規模の気候変動を受けて世界は人口が減少したことがわかっている。
535年から536年頃に発生した世界規模の火山の爆発は、当時朝鮮半島まで影響を及ぼした。天候不純やペストの発生で急激に人口が減少。
↓クラカタウおよびエルサルバドルの火山が爆発した可能性、ペストが流行した
仏教も渡来し、宗教観や墓葬も変化。衛生上の理由からも仏教、火葬の必要性が芽生えていく時代だろうか。
ユダヤ人の末裔の氏族にとっては、古墳時代後期はアニミズムとしての神道か、仏教でいくのか、選択の時期となっていたのだろう。
群馬の上野三碑などに記されている文字を読むとお坊さんとしてやっていく決意表明とも読み取れる文章も残っている。
↓群馬の多胡碑について紹介した回
なお、茨城にも石枕がみられる。その理由とはなんだろうか。
月の国から太陽の登る東の国へ、朝日を求めて、日高見の国が最終目的地となったのだろう。
千葉や茨城は日本の東端にあたる。イザヤ書に記された、東の島々の国の最東端なのだろう。
■石枕造付石棺のみられる古墳
・三谷石舟古墳
所在は香川県高松市三谷町。
形状は前方後円墳。
大きさは墳丘長88m。
墳丘周囲に盾形の基壇状の施設が巡らされているとされる。
これをあわせると101mとなる。
築造は古墳時代中期(5世紀)初頭。
「盾形」の意味について。
本古墳に限らず水を引いたかと思わしき形跡のある「環濠」をめぐらせた古墳がみられる。
これはどういう意味があるのか。
・未開の地に水を引き開墾するという意味
・王権を盾として守るという意味
この2つがあるように思う。
「未開の地に水を引く」については別テーマで紹介予定。
↓はwikipedia、三谷石舟古墳
・磨臼山古墳(すりうすやまこふん)
所在は香川県善通寺市生野町。
形状は前方後円墳。
大きさは墳丘長49.2m。
築造は4世紀後半。
有岡古墳群のひとつとされる。
なお、もっとも築造の早い野田院古墳の形式は前方後円墳。築造は3世紀後半。
↓wikipedia、磨臼山古墳にて石枕の画像
■馬蹄形石枕のみられる古墳
・上赤塚1号墳
所在は千葉県千葉市。
形状は円墳。
大きさは直径31m。
出土品に石枕、立花、石製模造品、鉄製農工具、大刀、銅釧、勾玉、ガラス玉などがある。
5世紀のものとされる。
↓はwikipedia、上赤塚1号墳から出土の馬蹄形石枕
・猫作・栗山古墳群第16号
猫作・栗山古墳群は総数56基で構成されている。
前方後円墳:3基
帆立貝形前方後円墳:7基
円墳:28基
方墳:18基
から成る。
第16号は円墳である。
大きさは直径22.8m~24.2m
築造時期は5世紀半ば頃。
墳頂部に埋葬施設が検出されている。
長さが6.6m×幅0.85m×深さ0.43mの木棺が納められていたと考えられている。
石枕は埋葬施設底面の両端近く、そして中央部に配置されていた。
石枕の周辺から
- 滑石製立花
- 滑石製勾玉
- 瑪瑙(めのう)製勾玉
- 滑石製臼玉
- 滑石製模造品
- ガラス玉
などが大量に発見された。
立花は石枕の周囲に小さな穴がある。
その小さな穴に差し込んで立てる飾りとされる。
また中央の石枕付近では
- 鉄剣
- 鉄製刀子
が検出されている。
↓は千葉県、猫作・栗山古墳群第16号
・石神2号墳
所在は千葉県千葉市。
石神古墳群の第2支群の主墳。
計5基から構成される。
大円墳:1基
円墳:3基
方墳:1基
石神2号墳の形式は円墳。
大きさは直径25m。
周囲に約8.5mの周溝がある。
中央に割竹形木棺1基がある。
全長は6.8m、幅は0.75~0.85m。
棺内に石枕が2具みられる。
2人の死者が足先を棺の中央に向けていたとされる。
↓は国立歴史民俗博物館、石神2号墳
石神2号墳出土品 | khirin
そのほか、
・千葉県香取市、堀之内1号墳、堀之内3号墳
・千葉県香取市、大戸宮作1号墳
・千葉県香取市、山之辺手ひろがり遺跡3号墳
・千葉県市原市、姉崎二子塚古墳
築造は5世紀前半から中頃。
形式は前方後円墳。
大きさは103mだが推定復元長は110m。
↓は姉崎二子塚古墳から出土の石枕
常総地域の、石枕の加工方法に関する論文がみられる。
・和歌山県有田市、椒古墳(はじかみこふん)
所在は和歌山県有田市初島町。
形状は前方後円墳。
築造は5世紀中葉から後半。
被葬者は伝承としては長屋王(第40代・天武天皇の皇子の高市皇子の子とされる)。
しかし長屋王の生没年は676年あるいは684年~729年。
続日本紀や日本霊異記などで長屋王やこの古墳周辺地域にまつわるエピソードがあるようだ。
↓は文化遺産オンライン、和歌山県有田市 椒古墳出土、5~6世紀の石枕
所在は群馬県藤岡市白石。
形式は前方後円墳。
大きさは墳丘長155m。
築造は5世紀初頭。
↓は白石稲荷山古墳出土の石枕
所在は山梨県甲府市下曾根。
形式は前方後円墳。
大きさは99m(または120mとも)。
築造時期は4世紀中葉から後半頃。
東山地域には弥生時代後期後半から古墳時代前期前半にかけて方形周溝墓が築かれた上の平遺跡があるとされる。
突然前方後円墳が建設されたわけではなく、方形周溝墓の時代もあったことがわかる。
↓はwikipedia、大丸山古墳、石枕の画像あり
・奈良県斑鳩町、竜田御坊山3号墳
琥珀製の枕がみつかっている。
所在は熊本県宇土市松山町。
墳丘長は86m。
築造は4世紀後半。
まだ石枕に加工していない段階の石材が出土している。
被葬者は成人の女性が一人とされる。
■まとめ
・石枕は旧約聖書に出典のみられる、神との契約に関わるアイテム
・馬蹄形の石枕の出土が熊本の宇土(ウト)、奈良、和歌山、関東(群馬、茨城、千葉)でみられた
・石枕造付石棺の出土は香川でみられた
高い可能性で建国に協力したユダヤ人の渡来と関りがあるとみる。
本テーマでも熊本と関りがあることを確認できた。九州のヤマト国、ヒミコやトヨとの時代の中国の動乱や遣使に深いなぞが眠っているように思う。
<参考>
・石枕 - Wikipedia
・三谷石舟古墳 - Wikipedia
・基壇 - Wikipedia
・磨臼山古墳 - Wikipedia
・姉崎二子塚古墳 - Wikipedia
・椒古墳 - Wikipedia
・長屋王 - Wikipedia
・白石稲荷山古墳 - Wikipedia