ヤマト王権の古墳群をみていく。今回は古墳時代の前期後半、馬見古墳群を取り上げる。このエリアではおおよそ盛衰が南、中央、北へと移動していったとされる。本記事で北、中央、南の順にて取り上げる。次の流れで紹介していく。
・馬見古墳群
・北群
・中央群
・南群
■馬見古墳群
馬見古墳群は大和盆地の西南部にある馬見丘陵(うまみきゅうりょう)とその周辺につくられた古墳群。
全長220mの前方後円墳の巣山古墳(すやまこふん)をはじめとする。
総数は250基以上とされる。
4世紀末から6世紀にかけて造営されたと考えられている。
大型の前方後円墳の分布により3群(北群、中央群、南群)に大きくわけられている。
築造順はおおよそ南部、中央、北部へと移動していく。
豪族の葛城氏と関連があったのではないかとされる。
↓はgooglemap、馬見丘陵。馬見丘陵公園、付近に巣山古墳がある
↓は奈良県、馬見古墳群と馬見丘陵公園のページ
■北群
・大塚山古墳
所在は奈良県北葛城郡河合町川合。
築造は5世紀中頃~後半。
形状は前方後円墳。
大きさは墳丘長215m。
墳丘は三段築成。
葺き石、埴輪列を持つ。
埋葬施設は竪穴式石室があり、長持形石棺と推測されている。
盾形の周濠の痕跡がある。
周辺の古墳7基を含めて大塚山古墳群とし馬見古墳群としない説もある。
この場合、大塚山古墳群は城山、丸山、九僧塚、中良塚(高山塚一号)、高山塚二・三・四号の7基である。
・島の山古墳
所在は奈良県磯城郡川西町唐院。
築造は4世紀末から5世紀初頭の間ごろとされる。
形状は前方後円墳。
大きさは墳丘長200m。
盾型の周濠がある。
これを含めた長さは265mとなる。
西側くびれ部から植物製の籠が出土している。
前方部頂から粘土槨が検出されている。
粘土槨が存在。
棺内には
碧玉製合子:3
銅鏡:3
大型管玉:5
竪櫛:11
首飾り:1
手玉:1
があり、この手玉の存在によって被葬者は女性の可能性があるとされる。
棺外では
- 滑石製勾玉
- 臼玉
- 管玉
- 琴柱型石製品
など2500点が散在。
棺上粘土からは
- 車輪石:80
- 鍬形石:21
- 石釧:32
- 鉄小刀:5
が封じられていたとする。
「合子」について。
蓋付きの容器。
主に古墳時代前期から中期にかけての古墳に副葬されることが多い。
全国で60点ほどしか確認されていないとされる。
出土の分布は近畿地方を中心とし、西は山陽地方、東は北陸・東海地方にかけて出土しているとされる。
↓はwikipedia、島の山古墳出土の石製合子
・九僧塚古墳(くそうづかこふん)
大塚山古墳のくびれ部に接する。
形式は方墳、二段築成。
築造は5世紀後半ではないかとされる。
大きさは一辺が33m、高さは3m
■中央群
丘陵の中央にある。
巣山古墳を中心とする。
・巣山古墳(すやまこふん)
所在は奈良県北葛城郡広陵町三吉。
形状は前方後円墳。
築造は4世紀末。
中央群の中心的な古墳とされる。
大きさは墳丘長204mだが、復元長は210mとされる。
幅広い周濠があり、楯形。
周濠を含めると外堤外側で全長333m、全幅245mとなり巨大古墳である。
出土品は多数ある。
うち、埴輪では
蓋(きぬがさ):7
家形:7
盾形:3
水鳥形:3
囲形:4
柵形:10以上
がある。
造り出しから
- 滑石製刀子(かっせきせいとうす)
- 籠形土器
が出土したとされる。
外堤の濠内北西隅から格子窓のように穴のあいた木の埴輪が出土。
内側から外側をみるという癖邪の意味があるのでは、そして古墳の外堤に大規模な施設をつくり、木の埴輪を置いていたのではと考えられている。
墳丘北側の周壕からは方形土壇の遺構がみつかっている。
底の部分からの高さは1.2m。
大きさは15m×15m。
土壇のすべてに葺石が施されていた。
四隅にやや大きめの立石があり、神の依代(よりしろ)ではないかとされる。
↓はwikipedia、巣山古墳
埴輪について。
家形が住居、囲形でその周りを囲む形となる。また、柵形は柵である。
屋根のあるプライベートな空間としての「家」や敷居としての囲いや柵はこのようにして発展していったのだろう。
・佐味田宝塚古墳(さみたたからづかこふん)
30面を超える銅鏡が出土。
その中に鏡背に四棟の家屋文様が描かれた「家屋文鏡」がある。
↓はwikipedia、佐味田宝塚古墳、家屋文鏡が画像で確認できる
・新木山古墳(にきやまこふん)
所在は奈良県北葛城郡広陵町赤部。
形式は前方後円墳。
大きさは墳丘長200m。
築造時期は5世紀前半。
陵墓参考地のため研究が進んでいない。
「新木」はシラギとも読める。
古代、なんらか関係する土地であったのだろうか。
宮内庁は三吉陵墓参考地、被葬者を押坂彦人大兄皇子と推定する。
押坂彦人大兄皇子は第30代・敏達天皇の皇子。
第34代・舒明天皇の父にあたる。
舒明天皇の和風諡号は息長足日広額天皇。
神功皇后が実在の人物とすれば、神功皇后の諱は気長足姫、父は息長宿禰王(参考:母は葛城高顙媛)である。舒明と神功皇后はなんらか関係があるのだろう。
↓はgooglemap、新木山古墳
参考:↓はgooglemap、百済寺 位置的に新木山古墳の東の方に百済寺がある
・乙女山古墳(おとめやまこふん)
所在は奈良県北葛城郡河合町佐味田。
築造は5世紀前半。
形状は帆立貝式古墳。
全長約130m。
ちなみに現時点で最大の帆立貝式古墳は、宮崎県西都市の西都原古墳群の男狭穂塚古墳(おさほづかこふん)、全長約175m。
巣山古墳の周辺に帆立貝式古墳が多いとされる。
池上古墳、三吉二号墳、狐塚古墳(帆立貝式前方後円墳)、石塚古墳がある。
馬見古墳群の時代はすでに前方後円墳が定型化されているなかでの築造であり、帆立貝式前方後円墳は前方後円墳の変化形ではないかと考えられている。
馬見古墳群の帆立貝式古墳の中では乙女山古墳がもっとも古く、そして大きい。
ヒメ・ヒコ制度の中の、男性が前方後円墳、女性が帆立貝式古墳になっているのではないか、という見解がみられる(参考文献を参照)。
■南群
・新山古墳(しんやまこふん)
所在は奈良県北葛城郡広陵町。
築造は4世紀前半。
形式は前方後方墳。
大きさは126m。
築段があり、円筒埴輪列が並んでいたとされる。
後方部頂上に竪穴式石室があり、
・勾玉
・管玉
・車輪石
・鍬形石
・金銅製帯金具
・銅鏡34面が出土:三角縁神獣鏡や直弧文鏡
帯金具は西晋のものとみられている。
なお西晋の帯金具が出土しているのはほか兵庫県・武者塚古墳とされる。
西晋は265年~316年、持ち込まれて間もない副葬であったとしても早くて4世紀中年~末頃の古墳ではないかとされる。
宮内庁は大塚陵墓参考地とし、被葬者を第25代・武烈天皇と推定している。
武烈天皇は実在の場合、489年~507年の人物。すると古墳の築造年代とあわない。
・前期後半の他の古墳(中、小規模)
- 土山古墳:全長65m
- モエサシ三号墳:3号墳は約80mの前方後円墳。なお1号墳は35m、2号墳は15m
- エガミ田一~六号墳
- 別所石塚古墳:前方後円墳
- 城山一号墳:帆立貝式前方後円墳、墳丘長約42m
- 城山二号墳:東西約19m・南北約21m、棺は割竹形木棺、遺物に札甲(さねよろい)、鉄斧、鉇 (やりがんな)がある
・於(うえの)古墳:帆立貝式古墳、全長37m。
中央棺(第一主体)からは二体の遺骸が埋葬されていた。棺の西側では大刀と鹿角装柄の刀子三口があったとされる。棺の東側からは環頭大刀(かんとうのたち)、棺金具などが出土している。
・築山古墳群
- 築山古墳(全長209m、前方後円墳、磐円陵墓参考地、被葬者は特定していない)
- コンピラ山古墳(円墳、95m、五世紀前半、周濠あり、墳丘斜面から蓋(きぬがさ)形埴輪片が出土)
- 狐井塚古墳(きついづか、前方後円墳、全長75m)
- かん山古墳(円墳、径40m)
- 茶臼山古墳(円墳、築山古墳の陪塚の一つ)
- インキ山古墳(前方後円墳、全長約50m,築造は5世紀代)
・点在する小規模古墳
丘陵の尾根に点在しているとされる。大半は中期末~後期の時期とされる。
-鴨山古墳
板石の箱式石棺の古墳。石棺は4枚の緑泥片石を箱型に組み合わせ、板石をそこに入れ、蓋をするもの。計7体(成人男性3体、女性2体、小児2体)が合葬されていたと推定されている。
- 池田古墳群
古墳11基から成る。円墳1基、方墳9基、前方後円墳(全長50m)1基であったとされる。現存は、1基(領家山1号墳)のみ。
9号墳から人物埴輪、みずらをした人物の埴輪が出土。輪郭などはっきりした埴輪とされる。
なお、池田遺跡の北に馬見丘陵公園があり、およそ5km程度の距離。
池田遺跡の東、約12kmの距離に箸墓がある。
↓毎日新聞、池田遺跡
↓は大和高田市、池田遺跡
馬見古墳群を紹介、池田遺跡を確認できた。
<参考>
・大和葛城の大古墳群 馬見古墳群
・奈良県 / 公園の古墳 / 馬見古墳群と馬見丘陵公園 公園の古墳/奈良県公式ホームページ
・馬見古墳群 - 奈良県 - 行ってみよう〜全国遺跡・博物館マップ〜- 全国こども考古学教室
・馬見古墳群 - Wikipedia
・帆立貝形古墳 - Wikipedia
・池田遺跡 - Wikipedia