清寧天皇について。清寧天皇は天皇にまつわる物語上において「王家」と推測される「市辺押磐皇子」の子らの一族にバトンを渡すキーパーソンであると推測される。次の流れで紹介していく。
・清寧天皇
・星川皇子の乱と清寧天皇
・清寧天皇の即位前紀
・皇子がいなかった清寧天皇
・億計王、弘計王が播磨で発見される
・磐余甕栗宮(いわれみかくりぐう)
・白髪部と白壁
・手白髪郎女(手白香皇女)
・播磨国風土記・賀毛郡の志深の里(しじみのさと)
・玉丘古墳群
・玉丘古墳
・陪塚第1号墳と第2号墳
・クワンス塚古墳
・壇塔山(だんとうやま)古墳
・マンジュウ古墳
・笹塚古墳
まずは清寧天皇について。
■清寧天皇
第22代天皇とされる。
父は雄略天皇、第三皇子。
母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。
諱は白髪(しらか)である。
在位は短く、即位5年1月16日に崩御したという。
生まれながらにして白髪であったという。
そのエピソードなどから実在性を疑う説がみられる。
実在したとすれば、在位は480年~484年と考えられている。
なぜ白髪という何やら怪しげなエピソードを日本書紀は掲載したのか。
允恭を祖とする、このため、おそらくペルシャ系との混血であり、白い色素の髪が出たのではないか。
さらには、新羅・シルラとの関係も考えられる。
新羅周辺に秦韓国が存在した時期がある。
星川皇子こと星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)は生没年は生年不明~479年(雄略天皇23年)。
日本書紀で雄略天皇と吉備上道臣氏出身の稚媛との間の子とされる。
星川皇子の乱は推定479年(雄略天皇23年)、ヤマト王権側の白髪皇子と吉備をはじめとする星川皇子の勢力との戦いで、星川稚宮皇子が吉備上道臣一族の支援の元に、天皇亡き後の皇位継承をめぐって起こした政変とされる。
経緯として、天皇の妃の一人・吉備稚媛が子である星川皇子をそそのかし、「天下の位に登ろうとするなら、大蔵の官をおさえなさい」と言ったという。
そこで星川皇子は大蔵を占拠したとされる。
これに対し、大伴室屋・東漢直掬らが星川皇子、稚媛、吉備上道兄君、城丘前来目(き のおかさきのくめ)らを焼き殺したという。
この翌年の正月、清寧天皇は即位したとされる。
↓は七星剣と妙見信仰を紹介する中で星の名を持つ星川皇子の乱を取り上げた
星川の名を持つ人物に星河建彦宿禰がいる。
星川稚宮皇子は巨勢氏と関係があったものと推測される。
↓は仁徳天皇は巨勢氏の象徴であり、また星河(星川)とも関係があることを示した
続いて、清寧天皇の即位前の頃の話について。
■清寧天皇の即位前紀
その冬十月。
大伴室屋大連(おおともむろやのおおむらじ)が臣、連を率いて、璽(しるし、天子の印章、御璽(ぎょじ))を皇太子(清寧天皇)に奉った。
元年の春正月、壇上(たかみくら)を磐余の甕栗(みかくり)に設けて、即位した。
そして葛城韓姫を尊びて皇太夫人(おおきさき)とした。
大伴室屋大連を大連とし、平群真鳥大臣(へぐりのまとりおおおみ)をもって大臣とした。
この平群真鳥は仁賢天皇の崩御後に、自ら大王になろうとしたされる。
しかし不満を抱く大伴金村が後の武烈天皇・小泊瀬稚鷦鷯尊の命令により、平群真鳥、真鳥の子の平群鮪(へぐりのしび)を討ったという。
さらには平群一族を皆殺しにしたされる。
平群一族は古代イスラエル人の末裔と考えられるため、この頃何かあったと考えられるだろう。
↓は平群真鳥の父の平群木菟についての考察回、平群氏はユダヤ人であったと推定される
↓は平群木菟と大鷦鷯天皇の名前交換エピソードについて考察した回
■皇子がいなかった清寧天皇
清寧天皇の崩御後、顕宗天皇が即位するまでの間は飯豊青皇女が執政したという。
のち、顕宗天皇が即位したとされる。
平群木菟(へぐりのつく)のツク・木菟(みみずく)はフクロウ科の鳥。
飯豊青皇女はの飯豊はフクロウの古語、「いひとよ」とされる。
フクロウは、ギリシャ神話の知恵の女神・アテナの聖鳥とされる。
また、飯豊青皇女には「青」が入る。
青は知性を表すともされる。
このあたりにギリシャ系の知識が入っていることになる。
おそらく、アレキサンドロス大王の東征以後、インドにギリシャ系の知識が入り、やがて中国・秦の始皇帝の兵馬俑の美術系の監督者もその子孫だろうから、日本にもさらにこの中国を経由した子孫が一部渡来していたのではないか。
雄略天皇が信頼した二人の部下に、身狭村主青と檜隈民使博徳がいる。
日本書紀では、雄略は即位8年、身狭村主青(むさのすぐりあお)、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を呉(宋)に派遣したとされる。
↓は身狭村主青、檜隈民使博徳が登場した回
shinnihon.hatenablog.com
↓は身狭村主青、檜隈民使博徳が帰国したときの回
■億計王、弘計王が播磨で発見される
清寧天皇即位2年冬十一月、億計王(後の第24代・仁賢天皇)、弘計王(後の第23代・顕宗天皇)の兄弟が播磨で発見される。
三年の春正月、伊予来目小楯(いよのくめべのおだて)らが億計、弘計を奉(あがめたてまつ)りて、摂津国(つのくに)に至った。そして臣(おみ)・連(むらじ)をして、節(しるし)を持ちて、王(みこ)の青蓋車(みくるま)をもって、宮中に迎え入れたとされる。
ちなみに、スメラノミコトは人物ではなく、乗り物を指していることもある。
■磐余甕栗宮(いわれみかくりぐう)
清寧天皇が執政を行ったのは磐余甕栗宮とされる。
御厨子神社(みずしじんじゃ)、奈良県橿原市東池尻町のあたりが磐余甕栗宮伝承地とされる。
しかし、甕栗宮(みかくりぐう)の甕栗(みかくり)は、億計王、弘計王の身隠し(みがくし)と関連して名付けられ、言葉を変化させたものではないかと推測する。
つまり、ミガクシ→ミカクリである。
■白髪部と白壁
清寧天皇の諱は白髪である。
また、古代の部(名代)の一つに白髪部(しらがべ)がある。
二年の春二月(きさらぎ)のこと。
天皇(すめらみこと)が子(みこ)が無いことを恨んで、大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)を諸国(くにぐに)に遣わした。
そして、
・白髪部舎人(しらかべのとねり)
・白髪部膳夫(しらかべのかしはで)
・白髪部靫負(しらかべのゆげひ)
を置いたという。
さらに清寧天皇よりのちの天皇に第49代・光仁天皇、在位(770年~781年)がいる。
光仁天皇は天智天皇の第7皇子である施基親王(志貴皇子)の第6皇子にあたる。
諱は白壁である。
白髪部は白壁と同じであるとみてよいと思われる。
例えば、古墳において、牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん、八角墳)の外壁は白い凝灰岩(ぎょうかいがん)で覆われている(現在、復元されている)。
さらには埴輪において、国宝である「挂甲の武人」の埴輪は白かったことが判明している。
ゆえに、白髪部は白い壁を示し、古墳などの外壁を担当していた名代や部が存在してたことを示すと推測できる。
↓は牽牛子塚古墳について取り上げた回
↓は6角墳、8角墳を築造の年代順に並べた回、牽牛子塚古墳が登場
続いて、「白髪」に関連し、同じく古事記で「白髪」の入る人物、手白髪郎女(手白香皇女)をみていく。
■手白髪郎女(手白香皇女)
古事記で手白髪郎女と「白髪」が入る。
日本書紀では手白香皇女と「白香」となる。
とする。
この手白香皇女は継体天皇の皇后である。
↓は手白香皇女が登場した回
播磨国風土記・賀毛郡の玉野の村にて、二人のオケの名がみえる。
意祁(仁賢天皇)、袁祁(顕宗天皇)の皇子たちが美囊の郡(みなぎのこおり)志深の里(しじみのさと)の高宮にいたとき。
山部小楯(やまべのおたて)を遣わし、国造(くにのみやつこ)許麻(こま)の女(むすめ)・根日女命(ねひめのみこと)に求婚する。
根日女命は言葉通りに従ったが、二人は譲り合って辞退した。
日が立って、根日女命は年老いて亡くなったという。
皇子たちは悲しみ、小楯を遣わして、勅して言った。
「朝夕に日の隠ろはぬ地に、墓を造り、その骨を蔵め、玉をもって墓を飾れ」。
ゆえ、この墓を玉丘と名付け、その村を玉野と名付けたという。
この玉丘について。
↓はgooglemap、玉丘町
10基ほどから成るという。
・玉丘古墳
・陪塚第1号墳
・陪塚第2号墳
・クワンス塚古墳
・壇塔山古墳
・マンジュウ古墳
・笹塚古墳
などがあるという。
■玉丘古墳
大きさは全長約109m。
築造は古墳時代中期。
古墳時代中期はおよそ5世紀と考えられている。
形状は前方後円墳で墳丘は3段築成。
墳丘周囲に幅約20mの周濠がある。
出土遺物に家形埴輪、鶏形埴輪、そして円筒埴輪が多数出土しているという。
播磨国風土記・賀毛郡、根日女悲恋伝承の舞台と考えられている。
古墳時代は、西暦250年頃に端を発する、主に朝鮮半島からの大陸からの移民の渡来期でもあるといえる。
■陪塚第1号墳と第2号墳
陪塚第1号墳は
大きさ:径約25m
形状:円墳とされるが、前方後円墳とする説
周濠:改変が激しいが周濠があったものとみられる
陪塚第2号墳は
築造年代:古墳時代中期とされる
位置:玉丘古墳をはさんだ西と東の対の位置にある
大きさ:一辺長約24m
形状:方墳
周濠:幅約4mの溝を持つ周濠がある
出土物:周濠から埴輪と凝灰岩片が出土している
■クワンス塚古墳
大きさは径約35m
形状は円墳
築造は古墳時代中期
墳丘に方形の造出し部が付くという
墳頂に、割竹形木棺を納めたと考えられる竪穴式石槨が残る
副葬品の大半はなくなったものと考えられいるが、
・三角板革綴じ短甲
・剣
・直刀
・鉾等の武具
・斧
造出し部から
土器類として
・鶏形埴輪等の形象埴輪
土製品として
・杵形
・突起付棒形
・棒形
・円盤形
・籠目形
などが出土しているという。
■壇塔山(だんとうやま)古墳
大きさ:径約17m
形状:円墳
築造年代:古墳時代中期
周溝:幅約3mの周溝がある
出土遺物:埴輪片が周溝から出ている
■マンジュウ古墳
大きさ:墳丘長約46m
形状:帆立貝式古墳だが、墳丘の大部分が削られている
築造年代:古墳時代中期
南側のくびれ部に造出し部があるという
周濠:幅10m前後の周濠、周庭帯が残るという
古墳の周囲に一辺長約10m方墳、径約24mの円墳が存在していたという
■笹塚古墳
大きさ:全長約51m
形状:帆立貝式墳
築造年代:古墳時代後期
竪穴式石槨:削られた墳丘の頂上に竪穴式石槨が露頭しており、天井石等が落下しているという
造出し:墳丘裾に方形の造出し部が設けられていたが削られており、その形がわずかに残る程度であるという
周濠:幅約10mの周濠がある
出土:周濠の埋土から円筒埴輪片、人物形象埴輪がある。
別回にて、市辺押磐皇子を紹介する。
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<参考>
・清寧天皇 - Wikipedia
・飯豊青皇女 - Wikipedia
・白髪部 - Wikipedia
・光仁天皇 - Wikipedia
・玉丘古墳群 - Wikipedia
・古墳について 玉丘史跡公園-玉丘古墳,クワンス塚古墳,陪塚第1号墳・第2号墳,壇塔山古墳,愛染古墳,実盛塚古墳