シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

458.カルの名を持つ4人の皇子と皇女

古代のカルの名前を持つ人物、軽大娘皇女、木梨軽皇子孝徳天皇文武天皇の4人をとりあげる。このことでヤマトタケル東征以後の歴史がつながることを示していく。この「酒折宮」は古代史の重要なてがかりとなってくる。次の流れで紹介していく。

・軽の酒折
酒折
伊良湖の由来は伊良胡か
・軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)
木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)
允恭天皇(いんぎょうてんのう)
仁徳天皇
允恭天皇の子で天皇になった人物
雄略天皇の子の星川皇子
允恭天皇・即位3年の出来事
・允恭の子の対比構造
まほろばと麗しいの語源
衣通姫伝説(そとおりひめでんせつ)
・衣服に関する伝承
まほろばと麗しい
・スメラミコトとシュメールのつながり
軽皇子孝徳天皇
軽皇子文武天皇
・ガチョウと軽
応神天皇と軽島豊明宮
・軽部臣
・カルとは何か

まずは最も古い、軽の酒折池から。

■軽の酒折
古事記、第10代・崇神天皇段にて。

男性の弓箸(ゆはず)の調、女性の手末(たなすえ)の調を取り立てたとされ、その御世をたたえて初国知らしし御真木天皇(みまきのすめらみこと)という。
崇神天皇の御世に「依網池(よさみいけ)をつくり、また、軽の酒折池をつくる」

とある。

依網池は大阪府大阪市住吉区庭井付近。この近くに大依羅神社がある。
軽の酒折池は奈良県橿原市大軽町付近ではないかとされる。

また日本書紀崇神天皇・六二年で「苅坂池、坂折池を作る」とあり、カルサカ、サカオリという池がでてくる。

池の名前となっている、依網(ヨサミ=依羅)カル、サカ、そしてはかなり近い民族に関する言葉であると考えられる。まだ、同時に当時高度な土木技術を持っていた集団であったことが想定できる。
↓は依網池を扱った回

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酒折池の「酒折」について。

酒折
古事記景行天皇段の倭建命の東征の箇所にて登場、甲斐・山梨県甲府市酒折とされる。
ヤマトタケル(倭建命)が妻の弟橘比売を失い、「あづまはや(私の妻よ、ああ)」と嘆いた地はやがて阿豆麻(あづま)と呼ばれるようになったという。
阿豆麻は静岡県駿東郡小山町竹之下である。
この阿豆麻の国より甲斐に出て、酒折宮に立ち寄ったという。
↓はオトタチバナヒメについて取り上げた回

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伊良湖は伊良胡か

ヤマトタケルの東征の際。
尾張から相模・上総を経て蝦夷に至ったとされる。

一方、帰路は相模の足柄峠から甲斐国酒折宮へ立ち寄って、信濃倉野之坂を経てから尾張へ至ったとされる。

この東征ルートの中に、地理的に考えても愛知県田原市伊良湖町があるものと思われる。
湖はない。
すると「湖」は「胡」であったのではないか。
胡は胡人を示しているのではないか。
そして伊良は依羅、のちのイランを示す可能性がある。

続いて、4人の人物名をみていく。

■軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)

父を第19代・允恭天皇とする皇女。
母は皇后の忍坂大中姫命(忍坂大中津比売命)

古事記によると大変に美しい女性であったという。

衣通郎女、衣通王とも呼ばれる。
美しさが衣を通してあらわれている、との意味があるという。

日本書紀は「衣通郎姫」と称されたのは忍坂大中姫の同母妹、弟姫であるとする

木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)
軽大娘皇女とは同母の妹であり、父は允恭天皇、母は皇后・忍坂大中姫。
允恭天皇の第一皇子、皇太子である。

日本書紀で容姿が美しかったことが記されており、美男子であることが強調されている。

愛媛県松山市にの軽之神社があり、軽太子(かるのみこのみこと)、軽皇女(かるのひめみこ)が祀られている。

木梨(キナシ)とは何か。

ひとつは花梨(かりん)ではないかと推測する。
この場合、中国から日本へ渡来した果樹で、薬用にも利用されるという。

もう一つは地名で出身地などの可能性がある。
この場合は
兵庫県加東市木梨
・旧備後国御調郡木梨村、現在の広島県東部、尾道市木ノ庄町木梨

などがルーツが古いものと思われる。

続いて、軽太子、軽皇女の父である允恭天皇とさらにその父、仁徳天皇について。

允恭天皇(いんぎょうてんのう)
第19代天皇
古事記より453年の没とされる。

允恭天皇仁徳天皇の第四皇子である。

↓は允恭天皇について扱った回

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仁徳天皇
仁徳天皇は大鷦鷯天皇、大雀命(おほさざきのみこと)とも。

大雀は巨勢氏を想定して作り上げた天皇である可能性が高い。

↓は巨勢氏と雀の関係性を考察した回

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允恭天皇の子で天皇になった人物

允恭天皇の子供には
木梨軽皇子
・軽大娘皇女
のほかにも天皇となった子として

安康天皇
雄略天皇

がいる。

安康天皇雄略天皇

安康天皇雄略天皇木梨軽皇子、軽大娘皇女と父母が同じである。

安康天皇については安康天皇の諱が穴穂である。
また、穴穂に関してはのちの人物に穴穂部間人皇女がいる。
穴穂からつながる人物にハシヒト(間人)という存在がある。
このハシヒトはペルシャ人ではないかと推定した。
↓は推古天皇時代の人物名からペルシャ人子孫の存在について考察した回

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↓は間人皇女と穴穂部間人皇女の2人の皇女から間人について考察した回

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雄略天皇の子の星川皇子

雄略天皇の子に星川皇子がいる。

生没年は生年不明~479年雄略天皇23年)とされる人物。
日本書紀雄略天皇と吉備上道臣氏出身の稚媛との間の子とされる。

星川皇子星川皇子の乱を起こしたとされる。

星川皇子の乱は推定479年雄略天皇23年)ヤマト王権側の白髪皇子と吉備をはじめとする星川皇子の勢力との戦いである。

↓は星に関連し七星剣、妙見信仰などを扱った回で星川皇子を取り上げた

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星川皇子のほかに、星のつく人物に星河建彦宿禰がいる。

こちらは新撰姓氏録に登場する人物。
許勢小柄宿禰(こせのおから)の子であるという。

星川星河)は巨勢氏と関連が強いことがわかる。

すると、巨勢許勢星川星河)そしてそのクロニクルが大鷦鷯(仁徳)なのだろうか。
↓は星に関連する人物のうち、星河建彦宿禰が登場した回

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星川皇子の乱に吉備が関連することから、推定463年の吉備の乱も星川皇子の乱とのつながりがあるのだろう。
↓は吉備の乱について取り上げた回

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以上、吉備や朝鮮半島関連の情勢において
・吉備氏の乱:推定463年、吉備で起きた乱
星川皇子の乱:推定479年、白髪皇子と星川皇子の勢力との戦い
磐井の乱:527年、筑紫で起きた乱
といった内乱が起きていたことになる。

古墳時代は古墳という墓制の特殊性もさることながら、東アジアにおける北方民族の南下、そして朝鮮半島三国時代、秦韓国(朝鮮)から秦王国(豊前の一部か)への移民などもあったと思われる。
これと同時に渡来していた民族の覇権争いも生じたのではないか。

今回のカルやハシヒトを追っていくと允恭天皇の時代にさかのぼることになる。
この時代に何が起きていたか。

允恭天皇・即位3年の出来事
允恭天皇の即位3年1月のこと。
新羅に良いクスシを求めたとされる。

古事記では新羅から貢物を運んできた金波鎭漢紀武(こむはちむかむきむ)が来日したという。
金は姓、波鎮漢は官位、紀武は名前とされる。

エフェソス公会議が431年頃のことであり、金波鎭漢紀武の「波鎭漢」はローマのバチカンをさし、東方に西方の人物が既にきていたとみる。
↓は金波鎭漢紀武の名前について考察した回

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■允恭の子の対比構造
允恭の子にはさきほどの
容姿が端麗な
・軽大娘皇女
木梨軽皇子
がいる。
一方で、雄略天皇安康天皇について。

雄略天皇つねに、性格が荒く、怖く、たちまちに怒った時、朝に見ゆる者は夕べには殺される、という
↓は雄略天皇の性格について記した回

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安康天皇については、淡海三船が魚のアンコウを想定して漢風諡号をつけたのではないかと推定される。

↓は安康天皇について紹介した回

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そのほかの允恭天皇の子女には

白と黒を示す

・境黒彦皇子
・八釣白彦皇子

がいる。

眉輪王による安康天皇の暗殺後、雄略天皇は同母兄弟の八釣白彦皇子と坂合黒彦皇子を共犯者として疑う。

まず八釣白彦皇子が雄略によって殺害される。
そして坂合黒彦皇子、眉輪王は葛城円のもとに逃げる。
しかし雄略は坂合黒彦皇子、眉輪王、葛城円を焼き殺したという。

葛城円などはソグド人またはそれに近い人種と考えられる。

古事記で示される底度久御魂の箇所ではソグド人をほのめかすキーワードを散りばめて構成されていることをつきとめた。

↓は底度久御魂とソグディアナの関係を考察した回

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上述の眉輪王とともに疑いをかけられた坂合黒彦皇子は円大臣のところに逃げたとされる。この葛城円についても円は都夫良意富美ともされる。

ソグディアナ出身の民族を封印するために

・海の底ゾクトク
・泡:粟特
・空気の粒:都夫
の3つにわけて封印した可能性が高い。
その際のツブ都夫、ツブラ)がソグディアナの出身であることと関連があるものと考える。

↓はソグディアナ(サマルカンド)について言及した回

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さらには、允恭の子女にオオイラツメの名を持つ

・名形大娘皇女:ながたのおおいらつめのみこ
・但馬橘大娘皇女:たじまのたちばなのおおいらつめのみこ 
がいる。
イラツメは若い子女と考えられているが、当初はペルシャ人の若い女性であった可能性がある。
↓はイラツメ、トジコについて取り上げた回

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衣通姫伝説(そとおりひめでんせつ)
木梨軽皇子、軽大娘皇女に関する伝説。

特に、軽大娘皇女は叔母である八田王女(やたのおうじょ)に似て美しかったという。

当時、異母兄弟であれば男女の仲となることは許されていたものの同母であった。

これが原因で、允恭天皇崩御後、本来は木梨軽皇子が即位するはずが、群臣たちは穴穂皇子(安康天皇)を支持したという。
そして軽皇子は伊予へ流刑、軽大娘皇女も後を追ったとされる。

詳しくは衣通姫伝説などを参照していただきたい。

■衣服に関する伝承
私見だが、葛城はカズラから来ているのではと考えている。

↓はwikipedia、カズラ

ja.wikipedia.org

一方、衣通姫(そとおりひめ)は、ストラ(ストール)から来ているものであると考えている。
↓はwikipedia、ストラ

ja.wikipedia.org

なお、時代背景については百済の第21代王・蓋鹵王について取り上げたい。

蓋鹵王の生年は不明~ 475年。
在位は455年~475年。
蓋鹵王は日本書記では加須利君(かすりのきみ)とされる。
加須利君は弟の昆支王を倭国に派遣している。

これは、加須利君がカソリックが語源であるための推測される。
↓は加須利君はカソリックが語源であることを考察した回

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語源のつながりにて。

ユダニツクという委ねるの語源が判明するのは雄略期である。
↓はユダニツクの語源を推測した回

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そのほか、古い言葉の語源について。

まほろばと麗しい

まほろばという古語がある。

まほろ」は素晴らしいを意味し、まほろばで「すばらしい場所」を意味する。古事記の中に次の歌がある。

倭(やまと、大和)は
国の真秀ろば(まほろば) 
畳(たたな)づく青垣 
山籠れる大和うるわし

これは倭建命(やまとたけるのみこと)が日本の国を思って歌ったものとされる。

この「マホロ」とはヘブルアラム語で「マホゥラ/マフラ」で日本語で「優れている」という意味とされる。

つまり、ヘブライ語である。

一方、麗しいのウルハシとは。
上記の「大和うるわし」のウルハシは漢文までみると「宇流波斯」である。
ペルシャをあらわす波斯が入る。
そしてウルは現在はイラクとなるが、古代メソポタミア南部にあった古代都市。

ちなみに、古代のユダヤ民族の歴史は紀元前17世紀、族長のアブラハム、子のイサク、孫のヤコブから始まる。ヤコブは別名イスラエルともいう。アブラハムの旅はその出身地の「ウル」から始まる。

まほろばも中東なら、麗しいも中東由来の民族に由来する言葉と考えられる。

400年代になると、この時代ころのユダヤ人、あるいはペルシャ人が一部渡来していたものと考えられる。

■スメラミコトとシュメールのつながり
このあたりの関連が、古代天皇が「すめらのみこと」と呼ばれたことと、「すめら」が「シュメール」と近い理由であると思う。

なお、シュメールとは、紀元前3000年頃からメソポタミアの南部地方に栄えた文明、民族、言語。現在のイラク南部にあたる。

↓は日本語における文字と言葉の成立過程を示した回

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↓はアブラハムの旅はその出身地の「ウル」から始まることについて取り上げた回

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「カル」に着目する人物にはほかに、孝徳天皇文武天皇がいる。
これまでに述べた軽大娘皇女木梨軽皇子とは関係があるだろうか。

軽皇子孝徳天皇
孝徳天皇は第36代の天皇
諱が軽である。

父は敏達天皇の孫の茅渟王(父は押坂彦人大兄皇子
母は欽明天皇の孫の吉備姫王(父は桜井皇子)。

在位は645年~ 654年。

皇后は間人皇(はしひとのひめみこ)

ハシヒトを皇后としており、ペルシャ人との関係性が想定される。

軽皇子文武天皇
第42代天皇
生没年は683年~707年、在位は697年~707年。

父は天武天皇の皇子、草壁皇子
母は阿陪皇女元明天皇

14歳で即位し、25歳で崩御

軽皇子文武天皇竹取物語のモデルとされる。
5人の公達(きんだち)がすべて文武天皇の際の政府の高官たちであるためである。
↓は竹取物語について取り上げた回

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712年には古事記が完成する。

文武天皇の時代の近くに新羅には、
新羅の第30代の王の文武王(ぶんぶおう、生没年626年~ 681年、在位で661年~681年)がいる。
淡海三船は漢風諡号をつける際、なんらか考慮したのであろうか。

文武王は在位中に高句麗を滅ぼした。また、朝鮮半島を統一した人物である。

日本に渡来した百済や、高句麗の勢力からすると心情的にどうであったか、と思われる名前を持つ。

またこの新羅の文武王は先代の武烈王の長子とされる。

日本の天皇においても、第25代・武烈王は、諱を小泊瀬稚鷦鷯尊、小長谷若雀命とする人物。
古事記には目立った悪評はないが、日本書紀において極悪非道な人物として描かれている。武烈天皇をもって応神天皇から仁徳へと続く系統が途絶え、応神から継体天皇へと続く系統へと切り替わる。

よって、武烈とは何からの系統を途絶えさせた人物に名付けられるとみてよいのではないだろうか。

■ガチョウと軽

雄略天皇の即位10年10月(冬)。

水間君が献上した養鳥人らをもって軽村(かるのふれ)、磐余村(いわのふれ)の二箇所に安置した。

↓は呉国からのガチョウの献上を取り上げた回で軽村が登場した

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応神天皇と軽島豊明宮

応神という名前は「應神」、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)とも。

宮となる軽島豊明宮跡の所在は奈良県橿原市大軽町とされている。

↓は軽島豊明宮について紹介した

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そのほか、古代の天皇の「軽」が入る宮には

・第4代・懿徳(いとく):軽曲峡宮
・第8代・孝元(こうげん):軽境原宮

がある。
↓は懿徳天皇孝元天皇の宮を紹介した回

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ちなみに、百済にも威徳(いとく)王がいる。
百済の第27代の王で在位は554年~598年。
諱は扶余昌。

■軽部臣
武内宿禰の子の許勢小柄宿禰を始祖とする。
後裔に軽部朝臣がいる。

許勢小柄宿禰 ー 伊刀 の系図がある。
伊刀はイト、伊都や倭奴などとの関係性が想定される。

許勢臣、雀部臣と同族関係にあったとされる。

すると、巨勢氏、雀部は仁徳天皇であり朝鮮経由の渡来人物が想定される。
そして、そもそもが巨勢氏が西方由来であるのかもしれない。

■カルとは何か
結局、「カル」とは何か、はっきりとしたことは不明であった。

しかし、1つの案を出すとすればカルガモ「カル」があげられる。

斑鳩が鳥の「イカル」から来ている可能性があり、鳥である。
また、古代において果たした賀茂氏の役割も大きく、これもカモである。

また、雄略期で水間君が献上した養鳥人らをもって軽村(かるのふれ)、磐余村(いわのふれ)の二箇所に安置していることから、水鳥などとの関連が想定される。

以上、カルの名が出る年代のみをまとめれば、

・軽大娘皇女、木梨軽皇子
 父は第19代允恭天皇(5世紀中頃の天皇)、母は皇后・忍坂大中姫
軽皇子孝徳天皇):在位は645年~ 654年(生没年:596年~654年)
軽皇子文武天皇):在位は697年~707年(生没年:683年~707年)

となる。
そして、このカルの部民である軽部が巨勢氏と関連があることを示した。

<参考>
酒折宮 - Wikipedia
酒折宮公式サイト

軽大娘皇女 - Wikipedia
木梨軽皇子 - Wikipedia
八田皇女 - Wikipedia
衣通姫伝説 - Wikipedia
カズラ (衣服) - Wikipedia
ウル - Wikipedia
孝徳天皇 - Wikipedia
文武天皇 - Wikipedia
カリン (バラ科) - Wikipedia
威徳王 (百済) - Wikipedia