シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

456.推古と酔胡~ペルシャ人子孫の日本への貢献~

推古天皇、そして聖徳太子は、ペルシャ人の末裔とする説がある。ここではそうであったとする説を支持する根拠を示していく。次の流れで紹介していく。

・李密翳(りみつえい)
・破斯清道(はしのきよみち)
人皇(はしひとのひめみこ)
穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)
聖徳太子
推古天皇(すいこてんのう)
・駱駝の献上
・アナーヒター
新羅の官位のササン
法興寺飛鳥寺の建設とイラン人
・女性のトジコやイラツメが出現する時代
・男性の5人のイラツコ
・アリアケ
・依羅氏と我孫子
依網池(よさみのいけ)依網屯倉(よさみのみやけ)
阿蘇蘇我
阿蘇ピンク石の使用の歴史
・出挙と貸稲
蘇我稲目
・蹴鞠の掛け声

■李密翳(りみつえい)
少なくとも700年代にはペルシャ人が渡来している。

752年、菩提僊那(ぼだいせんな)が752年、東大寺大仏殿の開眼供養法会で婆羅門僧正として導師を務めた。

現在の南インド出身。
ボーディセーナ。
唐に滞在中、日本の僧からの招請を受け、736年に訪日した。

この菩提僊那ほか、李密翳(りみつえい)らが来日したとされる。

続日本紀に名前の見えるペルシア人(波斯人)である。

今回は、この700年代より史実性をもって年代を遡る。

そしてここでは推古天皇聖徳太子ペルシャ人ではないかという推論を紹介する。
↓は李密翳が登場した回

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波斯に関連して破斯清道について。

■破斯清道(はしのきよみち)

奈良時代の官吏。
式部省大学寮に勤務する、員外大属とされる。

平城宮東南隅の式部省関連地域から出土した、765年を示す木簡から名前が見つかっている人物。

破斯と言う名前からペルシャ人と推定されている。

↓下記の遷都の歴史でも破斯清道を紹介した 

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■間人皇(はしひとのひめみこ)
人皇女は舒明天皇(在位629年~641年)の子女の一人。
第36代孝徳天皇(在位:645年~654年)の皇后。
人皇女の「間人(ハシ)」は波斯(ハシ)と同音である。

↓は人皇女の登場した回

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穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)
欽明天皇(在位539年~571年)の第三皇女。
母は蘇我小姉君。

用明天皇(在位585年~587年)の皇后である。

用明天皇穴穂部間人皇女の子に聖徳太子がいる。

聖徳太子
用明天皇穴穂部間人皇女の第二皇子。
古事記で言う厩戸豊聡耳命。
母が間人皇女のため、聖徳太子もハシヒトと考えられる。

推古天皇(すいこてんのう)
推古天皇の在位は576年~585年。
父は穴穂部間人皇女と同じく欽明天皇(在位539年~571年)
推古天皇とは、淡海三船がつけた漢風諡号とされる。

正倉院にも残る、伎楽面の酔胡従(スイコジュウ)ペルシア人の王とこれに仕える従者が酒に酔うという演目で用いられたもの。

淡海三船が諱:額田部に対し推古(スイコ)と名付けた理由は非常に興味深い。

父の欽明天皇の漢風諡号は天国排開広庭天皇だが、天寿国繡帳では「阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等(あめくにおしはるきひろにわのみこと)」。この文字の中に意斯波留(オシハル)の斯波をひっくりかえすとハシ。

↓は文化遺産オンライン、伎楽面 酔胡従

bunka.nii.ac.jp

■駱駝の献上

日本書紀推古天皇7年(599年・秋9月)のこと。

百済より、
・駱駝:一匹
・驢(うさぎうま):一匹 ※ロバのこと
・羊:二頭
・白雉(しろきぎす):1隻(ひとつ)※白色のキジ
が献上されている。
↓駱駝の献上について示した回

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■アナーヒター
聖徳太子の母の穴穂部間人皇女の「穴」と「人」を取ると、アナヒトとなる。
ペルシア神話に登場する女神にアナーヒターがいる。
このアナ―ヒタ―は3世紀から7世紀のペルシャ語であるパフラヴィ―語ではアナーヒトである。

↓はwikipedia、アナ―ヒタ―

ja.wikipedia.org

穴穂部間人皇女の穴穂部とは。

■穴穂部(あなほべ)

雄略天皇が兄の穴穂皇子安康天皇のために設定したという。

安康は平和で安らかにという意味の安康であろうか。
ちなみにアンコウは漢字で鮟鱇と書く。

アンコウが文献に登場するのは室町時代、江戸時代には鮟鱇が食べられていたことがわかっている。
アンコウは水深30m~510mに住む。

↓は安康天皇の漢風諡号について紹介した回

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聖徳太子の従兄弟とされる蜂子皇子も、もしかするとハシヒトかもしれない。
↓は蜂子皇子について取り上げた回

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新羅の官位のササン
日本の冠位制と新羅の官位を比較。
その際、新羅の官位に沙湌(ササン)がみられた。
これはササン朝ペルシアのササンと考えられる。
↓は日本の冠位制と新羅の官位を比較した回

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法興寺飛鳥寺の建設とイラン人
588年、百済から仏舎利(入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨)が献じられた。これを受けて蘇我馬子が寺院建立を発願し、596年に完成した。 当時は現在の約20倍もの壮大な寺院であったとされる。
その建設の際、百済からイラン人の職人が来たと考えられる。
↓は法興寺飛鳥寺)の建設に関わったイラン人を紹介した回

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女性の名前に「イラ」のつく「イラツメ」について。

■女性のトジコやイラツメが出現する時代
古代史に登場するトジコやイラツメは西方にゆかりのある民族の子供たちと考えられる。縄文人の祖先ではないが、弥生人または古墳人の祖先と考えられる。
イラツメのイラはイラン人のイラではないだろうか。

なお、早くはアーリア人とか、パフラヴィ―語ではイランを「エーラーン」、「エーラーンシャフル」。のちに「イーラーン」。

なお、トジコなどは十字架、あるいはトルコ(ターキー)を示す可能性が高い。
オスマン朝トルコの原型の民族は、古代は中央アジアにいたためである。

↓はトジコ、イラツメを紹介した回

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次は男性の「イラ」について。

■男性の5人のイラツコ
イラが入っていると古代のイラン人の可能性があるとの仮説をもとにイラツコの名前のつく男性を5名取り上げた。
菟道稚郎子
・大郎子(おおいらつこ、稚渟毛二派皇子の子)
・波多毗能大郎子(はたびのおおいらつこ)
・嶋郎(しまのいらつこ、仁賢天皇
・朝日朗(あさけのいらつこ)
などがいる。
↓は5人のイラツコ

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■アリアケ
九州の有明海、長野の千曲市などで「有明」の地名を持つ。
有明は夜明けを意味する言葉であるが、アーリアや、月の民が日本にやってきて国土開発をしたことなどを暗喩するものではないだろうか。

↓は長野の有明山将軍塚古墳を紹介した回

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ヤマトタケルの東征前、最初のヤマト国は九州の有明海近くにあった
↓史実としては九州の有明海付近にヤマト国があったことを紹介した回

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依網吾彦男垂見我孫子
時代が下ると、人物としての依網、地名としての我孫子が現れる。

大阪府大阪市住吉区の大依羅神社(おおよさみじんじゃ)とも関係すると思われ、「依網」と「依羅」は同じものを示すと考えられる。

↓は我孫子の由来、依羅氏について紹介した回

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■依網池(よさみのいけ)依網屯倉(よさみのみやけ)

5世紀代から7世紀代にかけて、大和朝廷によって依網池が開発されたり、直轄地(屯倉)が置かれたものと思われる。

依網池は大依羅神社周辺、旧・河内国丹北郡池内村にあったと伝わる池。

古事記では
崇神天皇段で依網池を作ったこと
仁徳天皇段においても丸邇池(わにのいけ)、依網池をつくったこと

が記されている。

一方、日本書紀では、推古天皇が築いた池の中のひとつ依網池の名がみえるという。

依網屯倉(よさみのみやけ)について。
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)平安時代中期の辞書。
源順による承平年間(931年~938年)での編纂に

摂津国住吉郡大羅(おおよさみ)(現:住吉区南東部、大依羅神社周辺)
河内国丹比郡依羅(よさみ)(現:大阪府松原市北西部)
丹比郡三宅(郷(現:松原市北部)
などがみえるという。
 

では、いったいいつ頃ペルシャ人(イラン人)は日本に渡来したか。

阿蘇蘇我
少なくともトヨが中国に遣使を送った頃には渡来していたと考えられる。
剣術の指導者であったと考えられる。
蘇我は次のような言葉で形成された名前と考えられる。
阿蘇(アソ)→吾蘇(アソ)→我蘇→蘇我となる。

この言葉遊びのようなものに関連し、比売語曽社などの「語曽」も「吾蘇」で同音、同じ民族が関わるものではないか。

ヤマト王権蘇我氏との関連について。
ヤマトタケルの東征(西暦300年頃)に弟橘姫のほか、蘇我姫が同行していたと考えられる。

蘇我氏主体の王朝は645年、乙巳の変で滅びる。
ササーン朝ペルシアは224年~651年。
直接的には関係ないのだろうが、間接的にはシルクロードの商人承認から朝鮮半島経由でペルシアの衰退なども聞いていただろうか。
↓は阿蘇の地名と蘇我氏について紹介した回

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阿蘇ヤマト王権とのつながりはあるだろうか。

阿蘇ピンク石の使用の歴史

最古の馬門石の利用は長砂連古墳の石障とされる。
長砂連古墳の所在は熊本県上天草市
築造は5世紀前半頃。

これ以降宇土半島周辺では6世紀中頃まで石障系の横穴式古墳の壁体や羨道部で用いられたという。

一方、中国・近畿地方では。
5世紀中頃に馬門石製舟形石棺が見られるようになる。
5世紀終わり頃に中国地方を経て近畿地方に広がり、6世紀前半まで近畿の有力者の石棺で阿蘇ピンク石が用いられたという。

宇土周辺および中国・近畿地方で馬門石が使用されたが宇土を除く九州では見られないようだ。
これより古墳時代において阿蘇ピンク石をヤマト王権が独占して使用していたのではないかと考えられている。

ほか、四天王寺にある熊野権現礼拝石が阿蘇ピンク石であるという。

阿蘇ピンク石について取り上げた回

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■出挙と貸稲
出挙は「スイコ」と読む。
日本の古代から中世にあったという利子付きの貸借のこと。

日本書紀・646年(孝徳天皇2年)に「貸稲(いらしのいね)」という言葉が登場する。これが出挙の前身ではないかとされる。

なぜ稲の貸付に「イラシ」が入るのか。

武力、土木技術を持っていたペルシャ人(依羅氏?)が稲を貸し付けていたのではないか。

蘇我氏の中に「稲」の入る人物がいる。蘇我稲目である。

蘇我稲目
稲目は536年、宣化天皇元年に大臣となった人物。

生没年は、506年?頃~570年とされる。

536年~660年頃までの寒冷化が起こっており「古代後期小氷期」とされる。

この寒冷化の原因がなぜか。
西暦535年~536年に世界規模の火山の大爆発が起きたことがわかっている。
のち、ペストが大流行、ローマや朝鮮でも死者が多数出る。
これが影響して百済より仏教が公式伝来したものと考えられる。

蘇我稲目が大臣になった536年はまさにこの大災害の年にあたる。
この飢饉などの処理にあたったのが稲目に相当する人物なのだろう。

稲目の子に馬子のほか、堅塩媛(きたしひめ)などがいる。
この堅塩媛と、欽明天皇との子に推古天皇(額田部皇女)らがいる。

推古天皇に出挙のスイコ、そして貸稲(いらしのいね)に「イラシ」が入るのは偶然ではないだろう。
↓はクラカタウ、エルサルバドルの大噴火について扱った回

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■蹴鞠の掛け声

蹴鞠は平安時代に中国から伝わった球技とされる。
中大兄皇子法興寺で「鞠を打った」際、皇子が落とした履を中臣鎌足が拾ったことをきっかけに親しくなたっという。

これがきっかけで645年に大化の改新が興ったことという。

鞠を蹴る際の掛声は「アリ」、「ヤア」、「オウ」とされる。
つなげると「アーリア王」に近いのが興味深い。

↓は宮内庁、蹴鞠について紹介しているページ

www.kunaicho.go.jp

以上、日本の古代史、律令国家体制の構築においてペルシャ人の貢献があったと推定される。

<参考>
李密翳 - Wikipedia
破斯清道 - Wikipedia
間人皇女 - Wikipedia
舒明天皇 - Wikipedia
穴穂部間人皇女 - Wikipedia
アナーヒター - Wikipedia
依網池 - Wikipedia
出挙 - Wikipedia