神武天皇は神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)、崇神天皇(すじんてんのう)は御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)とも言われ「スメラノミコト」の名が入る天皇である。この「スメラノミコト」とは何か。いつの時代に称された、そしてどのような意味が込められているのだろうか。シリーズ前編。次の流れで紹介していく。
前編
・卑弥呼の時代
・王墓の登場
・大日之命
・ヤマトタケルと倭彦
・魏や呉への遣使と紀年のある鏡
・開封市(かいほうし)のユダヤ人
九州説、畿内説がある。
答えは九州説である。
九州の有明海付近にヤマト国はあったと考えられる。
さらに、熊本付近にあったと考えられる。
魏志倭人伝の陳寿のルートをもとに熊本付近が推定できる。
なお隋書にいう豊前国に秦王国があったことが示される。
さらには倭の五王の遣使の記録から、朝鮮の辰韓と呼ばれた地域に
・新羅
そして
・秦韓
が存在していたことがわかる。
ゆえに、秦氏は既に少なくとも200年代~400年代にかけて朝鮮半島や北九州にいたことが記録として残っている。
↓は魏志倭人伝の陳寿のルートから邪馬台国は熊本。また、豊前国に秦王国が存在。
↓倭の五王の記録に秦韓国がみられる
■王墓の登場
魏志倭人伝には九州北部の伊都国に一大率という監視の役目をする役割の国があったという。
魏志倭人伝にも登場する奴国や伊都国についてわかっていることがある。
吉武高木遺跡の高木地区に弥生時代中期の中ごろ~終わり(約2,100~2,000年前ごろ)にかけて大型建物が出現する。
この頃に須玖岡本遺跡(奴国)、三雲南小路遺跡(伊都国)で王墓が登場する。
↓は福岡市の吉武高木遺跡から個人墓から特定集団墓への変化と王墓のある奴国、伊都国との違いを紹介
これは黄巾の乱(184年)に代表される、中国の国の動乱による影響と推定される。
卑弥呼の時代はそれからおよそ50年後だが、卑弥呼の国は30ほどの国々を治めた勢力に達していたという。
この国の名前がヤマト国であったという。
しかしこの頃、まだヤマト国に「天皇」がいたとは記されていない。
では、ヒミコやトヨといったこの時代の女王はどんな存在であったであろうか。
それは巫女型の女性のメッセンジャーである。
当時、特殊な神に近いような能力を持つ人が王に近い役割を果たしたのだろう。
■大日之命
卑弥呼の名前は日向(ヒムカ)であったという。
宮崎に日向(ひゅうが)この名前が残るのは、この名残だろう。
この日向には弟がいたという。
名前は大日之命(オオヒノミコト)である。
兄弟ともに「日」という名前が入っている。
これは太陽信仰であったためだろう。
そして卑弥呼の死後に男王がたったと記録が残る。
これが「大日之命」を示していると考えられる。
欠史八代の第七代・孝霊天皇の子女にあたる「倭迹迹日百襲媛命」が残る。
これは日向やその母のモモヒの名前から合成して名付けているものと推定される。
また、倭迹迹日百襲媛命と同時代頃の、同じく決史八代の第八代・孝元天皇にの子女に「大彦命」がいる。
これは時代と人物の系図上の配置構成からして大日之命から名づけた人物ではないかと推測される。
なお、孝元天皇の時代について。
「新撰姓氏録」は815年頃編纂が完了したもので、氏族の出自が記されている。
これによれば、第8代・考元天皇の時代に出自があるとする氏族が108氏族みられるという。
初代~第41代までの天皇の中でこの考元天皇の時代の出自が最大である。
考元天皇が実在かどうかは別として、この考元天皇の時代として認識された時代に大きな渡来があったものと推定される。
考元天皇は在位で紀元前214から紀元前158年という。
これは秦の滅亡頃と近い。
秦の滅亡は紀元前206年である。
また、孝元天皇にはオオヤマトネコヒコクニクルの諱があるという。
このクニクルはクロニクル、年代記から名付けたもので、日本書紀が編年体で作成されたことに由来するのではないかと推測される。
↓は新撰姓氏録について取り上げた回
↓はヒミコ家の家族構成について扱った回
↓はヒミコの死亡の経緯について扱った回。経緯を知る者がいて、またそれを中国の書物に残したものがいるということとなる。
↓欠史八大の中には意味を込めて名付けられた名前の人物たちがいる
■ヤマトタケルと倭彦
「ヤマト」のつく人物について。
一人に、ヤマトタケルがいる。
ヤマトタケルの東征は300年前後の史実であるという。
ヤマトタケルは九州・ヤマト国の人物である。
ヤマトタケルの父は第12代天皇・景行天皇、諱は大足彦尊という。
景行天皇の「ケイコウ」は古代の甲冑、「挂甲(けいこう)」から名づけ、好字をあてたものではないだろうか。
このヤマトタケルが東征を行った。
これに従ったのが伊都国や、そして国譲りを行った出雲の国の人びと。
陸ルート、海洋ルートを通りながら東征していったという。
そしてまず近畿の勢力を平定したのだろうと推測される。
その後、関東をも平定したと考えられる。
また東征後に九州内の未平定の地域を平定したという。
ヤマトの名前を持つ人物がもう一人いる。
第14代・仲哀天皇の五世孫、「倭彦王」である。
第25代の武烈天皇が崩御すると皇位継承者がいなかったという。
そこで大伴金村らが現在の京都府亀岡市(丹波国桑田郡)にいたという倭彦王を擁立しようとしたという。
以上のように、
・オオヒノミコトでオオビコ
・倭彦でヤマトヒコ
といったヒコ(日の子、天の子を示すか)といった呼称がみられる。
九州のヤマト国を発端とし、近畿のヤマト王権の礎が築かれていく時代の頃だろうか。その頃はまだ天皇という概念はなく、日の子であるヒコ、彦が使われていただろう。
再び卑弥呼の時代に戻す。
■魏や呉への遣使と紀年のある鏡
卑弥呼は魏に対して遣使を行ったという記録が残る。
一方で書物としての記録には残っていないが、鏡に記された紀年から、呉に遣使を行っていた勢力があったことが古墳から出土する鏡より判明している。
呉に対し遣使を行っていた勢力があったことを示すのだろう。
呉の238年、244年の紀年のある鏡が出土している。
敵対する勢力だったのか、それとも単にそれぞれ独立しており支援などを要請されたからなのだろうか。詳しくははっきりしないがその後のヤマトタケルの東征を考えればやがて武力で東征されていったということになる。
なお、南九州にあった倭奴国は既に卑弥呼の時代にはその力は衰えていたという。倭国大乱があったからだろうか、その後、卑弥呼の国が30余国の力をまとめあげるほどに台頭したとされる。
↓は呉の238年、244年の紀年の鏡
魏に対し遣使を行っていた勢力について。
235年、239年、240年(実在しない景初四年)、240年(正始元年)などがみられる。
↓魏の235年の紀年のあるものについて
↓魏の239年の紀年のあるものについて
↓魏の240年(実在しない景初四年)の紀年のあるものについて
↓魏の240年(正始元年)の紀年のあるものについて
なお、卑弥呼のいたヤマト国には既に西方由来のペルシャ人などが到達していたと考えられる。
具体的には西方由来の渡来人が剣術の稽古を指導していたと推測される。
また、ヒムカの宗女のトヨの剣術の先生をしていたと考えられる。
ササン朝ペルシアは221年~651年まで続いた。
この221年付近で逃れた民族が、一部は日本にも到達したのではないか。
当然、様々な国々を経由して渡来しただろう。
日本には、200年付近では中国の黄巾の乱などがあり、渡来が何度もあったと考えられる。
当時、渡来のたびに命を狙われるほどの状況であったとされる。
ゆえに、一部の渡来人は友好的であったかも知れない。
しかし、戦乱などで逃れて来た場合は、必ずしも友好的ではないようだ。
また日本に根付いてからも権力闘争、武力闘争などがあったようだ。
男性の武将たちは隙をみては自分が一番になろうとする。
そういう状況を治めたのが女性のリーダーであったとされる。
アマテラス(紀元前700年頃)以後、女性の時代は1000年ほど続いたという。
古墳時代にも被葬者の状況から女性が首長であったと考えられるものがいくつか出土している。
↓新羅の官位名にササン朝のペルシア由来と思われる沙湌(ササン)がみられる
↓女性首長を葬った10か所の古墳
卑弥呼は九州の人物であるが、歴史は西日本だけで展開されていたわけではない。
卑弥呼以前に関東でも先に展開していた。
関東の静岡、神奈川では250年以降に前方後円墳を構築している。
静岡県沼津市の高尾山古墳は前方後円墳、築造は230年または250年説がみられる。
↓は高尾山古墳について取り上げた回
千葉の木更津市の高部30号・32号墳は前方後方墳、築造時期は3世紀前半頃にまで遡る可能性があるという。
↓は高部30号・32号墳について取り上げた回
そして千葉市原市の神戸5号墳は築造年代は3世紀中葉前後とされる。
↓は神戸5号墳について取り上げた回
250年前後頃にも渡来があり、前方後円墳の墓葬をもつ渡来人がいたのだろう。
ヤマトタケルの東征もこのような古墳を墓制にもつ勢力の勢力拡大などが背景にあったのだろうか。
これは、おそらく淡路、土佐、阿波などにいた勢力と関係があるものと推測される。
もっと時代を遡れば、紀元前1000年頃より、ドルメンが韓国や九州にみられる。この頃より西方から徐々に渡来が始まっていた。
なので、この250年頃に渡来した民族が東方を目指したのか、あるいはすでにもっと昔に渡来し日本に帰化した民族であったのか、あるいはその両方か、真実はいずれであっただろうか。
なお過去に渡来した人びとは信仰心にあつかったようだ。
一方、後の時代の民族ほど技術的に優れた技術を持って渡来したように思う。
↓は朝鮮の遺跡について取り上げた回
支石墓を取り上げた回では、支石墓の分布は北部九州に多いことを紹介。
↓は支石墓(ドルメン)について取り上げた回
到着地点の日本だけの歴史を見ても何が起きていたかはわからない。
中国に目を向けると、見えて来るものがある。
中国と日本の接点を探る上で開封市は記録にも残る都市である。
戦国時代の魏(紀元前403年 - 紀元前225年)の時代の「大梁」、北宋(960年 - 1127年)、開封市は首都とされた。
重建清真寺記碑漢王朝時代、紀元前206年~紀元後220年の間にインドから中国にユダヤ人がやってきたことが残っている。
これらの勢力が日本まで渡来したかははっきりとはしない。
しかし、渡来していたとすべき考古学的証拠がいくつかある。
中国の秦の時代のあとの「新」の時代のコインである「貨泉」が日本から出土する
次回へ続く。