シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

162.日本の都と遷都の歴史

前回は桓武天皇をキーワードとし、平安京への遷都に触れた。今回は「遷都」を取り上げ、日本の歴史を探る。農耕型の定住社会を経験したのちより人口を増やし発展していくには「都市」の建設が必要となる。

■都市の建設や遷都にかかわる要素
ヒト、モノ、カネといった要素が必要と考えられる
・ヒト:建築技術をもった職人が必要
・カネ:豪族からの資金提供者が必要
・モノ:都市を建設するための適切な土地が必要

■遷都の歴史
神武天皇橿原宮で即位して以来、天皇は歴代遷宮、代替わりのたびに新しい宮を営んだとされる。その歴代遷宮天武天皇の時代、飛鳥浄御原宮まで続いた。下記に示すnoでは、~no.14までにあたる。その後、持統天皇藤原京を築いて遷都した。これより歴代遷宮が終了する。

下記に、宮・都、遷都年、天皇とその在位期間の順を示す。

no.都:遷都年/天皇(在位)
1.豊浦宮:592年/推古(592-628)
2.小墾田宮:603年/推古(同上) - 舒明(629-641)
3.飛鳥岡本宮/630年/舒明(同上)
4.田中宮:636年/舒明(同上)
5.厩坂宮:640年/舒明(同上)
6.百済宮:640年/舒明(同上)-皇極(642-645)
7.飛鳥板蓋宮:643年/皇極(同上)-孝徳(645-654)
8.難波長柄豊碕宮:651年/孝徳(同上)
9.飛鳥板蓋宮:655年/斉明(655-661)
10.飛鳥川原宮:655年/斉明(同上)
11.飛鳥岡本宮:656年/斉明(同上)
12.朝倉橘宮広庭宮:661年/斉明(同上)-天智(668-672)
13.近江大津宮:668年/天智(同上)-弘文(672)(※大友皇子)
14.飛鳥浄御原宮:673年/天武(673-686)-持統(690-697)
15.藤原京:694年/持統(同上)-文武(697-707)-元明(707-715)
16.平城京:710年/元明(同上)-元正(715-724)
17.恭仁京:740年/聖武(724-749)
18.難波京:744年/聖武(同上)
19.紫香楽宮:745年/聖武(同上)
20.平城京:745年/聖武(同上)-孝謙(749-758)-淳仁(758-764)-称徳天皇(764-770)-光仁(770-781)-桓武(781-806)
21.長岡京:784年/桓武(781-806)
22.平安京:794年/桓武

遷宮の理由
はっきりした理由は不明とされる。ただしいくつかの説があげられている。最有力は「死穢忌避(しえきひ)説」とされる。天皇の死去により宮にケガレが生じる。このため新天皇は宮を移したとする。天皇は権力の中枢におり、また兄弟などの近親者も多いなど権力の座につけなかった者たちの恨みなどの「悪い念」を追いやすい。また、古代は今ほど人口も多くなく、建物も少なく、いろいろしがらみがあったのだろう。死穢忌避説以外に次のような理由があるとされる。
・建物の耐用年数
・父子別居説:天皇の妻は実家で暮らし、天皇はそこへ通う、子が生まれ新天皇になるとそこを宮とする
・ト定説:吉凶を占い、ふさわしい場所を決めたのではないか
天皇と臣下との関係性

■宮と京の違い
天皇の住まいに「宮」と「京」がある。694年に持統天皇が都とした「藤原京」が最初の「京」。それ以前が「宮」とされる。推古天皇が603年に宮とした小墾田宮(おはりだのみや)は「大殿(おおとの)」という天皇の住まいと「庁」という役所によって構成されていたとされる。ただし、小墾田の時代は氏姓制度であった。日常業務を行う宮庁はなかった。そのため政務は豪族たちの邸宅で行われていたとされる。また「京域」がなかった。結果として宮の周りに人びとが住むことはあたったが、都市計画上の構造的な設計はなされていなかった。以上より、宮とは天皇の住まいと儀式の役所があるものをいう。京は宮の機能に加え、豪族や庶民の居住域を都市計画としてあらかじめ設計してつくられた都のことをさす。

氏姓制度
当時の時代背景を理解するためには「氏姓制度」の仕組みのを知る必要がある。氏姓制度はヤマト政権の豪族の身分秩序。古代日本においては中央貴族、ついで地方豪族が国家に対しての貢献度や朝廷政治上に占める地位に応じて朝廷から「氏と姓」を授与された。そしてその特権的地位を世襲していた。ヤマト政権は、大王を頂点としてた畿内である大和や河内を中心に形成された、豪族らによる連合組織であった。

藤原京の失敗
694年に飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)から遷都された藤原京はわずか16年で平安京へと遷都された。これには何があったのだろうか。平城京は唐の都・長安城を模倣したとされる。しかし日本は中国とも気候が違い、低湿地で排水機能が十分でなかった。このため衛生面が良くなかったとされる。つまり大規模の人間が住んだ際に発生する汚水などの水処理の問題が大きな問題となった。下記も参考とされたい↓

president.jp平安京はエル・サレムの結実か?
平安京は794年(延暦13年)~1869年(明治2年)まで1000年以上も続いた千年王国である。秦氏が財力、技術の面で全面的に協力したとされる。音韻の類似となるが、平安京という言葉をヘブライ語で表すと「エル・シャローム」、「エル・サレム」となるとされる。 「エル」とは「聖なる」を意味し、神、都市、都などを表す。セム語派で用いられる言葉だそう。
一方「シャローム」は平和、調和を表す。
2つあわせて「聖都」を示す。一方、「京」の構造も類似点がある。聖地エルサレムの「城塞」は12の門。平安京も当初12門となっていた。のちに2門が追加され、14門となった。

平城京にやってきたペルシア人
ユダヤ人は日本に来ていたのだろうか。そしていつ来ていたのだろうか。奈良文化財研究所の調査によると、13,000点見つかった木簡のうち、「破斯清通(はしのきよみち)」という役人の名前を示す木簡が見つかった。「破斯(はし)」は「ペルシャ(現在のイラン付近)」を意味すとされる。少なくとも平城京の時代にはペルシア人が来ていたことがわかる。 

www.huffingtonpost.jp

■実際の建築
実際の建築はどうであっただろうか。中国の長安城をお手本とし、日本の平城京(710年)、長岡京(784年)などの実践をふまえ平安京をつくられたと考えられる。ただし平安京においても水処理問題が残った。中国型の大陸の気候や都市計画と、それを日本・京都に適用した場合、うまくいかず試行錯誤が続いた。

■感想
平城京、710年あたりでは明確なペルシア人渡来の記録が残る

<参考>
・歴史人 APR.2023 No148 古代の都と遷都の謎
小墾田宮 - Wikipedia
平安京 - Wikipedia
長岡京 - Wikipedia
平城京 - Wikipedia
藤原京 - Wikipedia
飛鳥浄御原宮 - Wikipedia
橿原考古学研究所 | 平城遷都1300年-Q&A【平城京100の疑問】