古代の天皇の宮とされる伝説の地を紹介していく。これより土地とそれに紐づくエピソードを探していく。
今回はシリーズ第5弾、神功皇后、応神天皇を次の流れで紹介する。
・神功皇后:磐余若桜宮
・神功皇后までの系譜
・第15代・応神天皇:軽島豊明宮
・応神の誕生エピソード
・応神の名前
・誉田別神と去来紗別神の名前交換エピソード(易名説話)
・応神天皇の子菟道稚郎子
・菟道稚郎子が大鷦鷯尊に皇位を譲る
・応神と仁徳の時代の意味を問う
神功皇后(じんぐうこうごう)は名前は気長足姫尊(おきながたらしひめ の みこと)。第14代・仲哀天皇の皇后とされる。日本書紀の神功皇后の条において新羅への遠征が開始する。実在なら4世紀後半頃の人物ではないかと考えられている。
父は気長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)。母は葛城高顙媛(かずらき の たかぬかひめ)。
ja.wikipedia.org
↓はgoogle mapより磐余若桜宮は奈良県桜井市谷
■神功皇后までの系譜
次の関係性がある。
彦坐王 → 山代之大筒木真若王 → 迦邇米雷王 → 息長宿禰王 → 神功皇后
これを以下で紹介する。
・第9代・開化天皇の子供は、崇神天皇・彦坐王(ひこいますのみこ、ひこいますのおう)
・彦坐王の子は、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)
・山代之大筒木真若王は、丹波能阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)を妻とし、子供に迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)が生まれた
・迦邇米雷王は、丹波之遠津臣の女・高材比売(たかきひめ)を妻とし、子供に息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)が生まれた
・息長宿禰王には2度結婚。河俣稲依毘売、そして葛城之高額比売(かずらきのたかぬかひめ)。この葛城之高額比売との子が神功皇后にあたる。
・彦坐王の子供には山代之大筒木真若王のほか、もう一人「丹波道主命」がいる。「山代之大筒木真若王」の「やましろ」という地名や、「丹波道主命」の「丹波」から丹波国、山城国あたりの土地を支配していた豪族とのつながりが想像される。
・息長宿禰王との関連にて。
山津照神社古墳は息長古墳群(おきながこふんぐん)のうちの1つ。
墳丘長は46.2m、築造は6世紀中葉。
被葬者は一説によれば息長氏首長とされている(確定ではない)。
↓wikipedia、山津照神社古墳
・景行の子であるヤマトタケルが東征時、出雲は国譲りをする。その出雲とともに但馬、丹後、丹波、そして近江や越がつながっていたと考えられる。神功皇后との人物関係では山城、丹波とのつながりが強い。
※山城などはのちに京都で勢力を築いた秦氏がいる。神功皇后紀が物語上の造作かどうかまでは不明。
■第15代・応神天皇:軽島豊明宮
応神という名前は「應神」、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)とも。
宮となる軽島豊明宮跡の所在は奈良県橿原市大軽町とされている。
応神の在位は270年~310年とされる。実在なら4世紀後半〜5世紀初頭ごろの大王。応神の時代、さまざまな渡来人がやってきて活躍したと考えられている。
時代認識の参考を記す。
・邪馬台国・ヤマトタケルの活躍期は3世紀後半~4世紀前半
・百済からの石上神宮七支刀の製作が369年、贈られたのは372年(他の説もある)
・高句麗の広開土王碑は414年
・413年、東晋に対する遣使がある
・倭の五王の遣使が東晋が滅んだ420年の翌年、421年より宋に対して開始
・413年頃の後、新羅の王の王号が「尼師今(にしきん)」から「麻立干(まりつかん)」へと変わる。錦(織物)との関連が消える。
↓はwikipedia、応神天皇
↓はgooglemap、軽島豊明宮跡
goo.gl
■応神の誕生エピソード
神功皇后は懐妊のまま熊襲、三韓征伐に遠征して帰国後に応神天皇を生んだと伝えられている。
応神天皇は筑紫の蚊田(かだ)で生まれたとされる。
蚊田は筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田の諸説ある。
生まれた時期には異論が唱えられている。
■応神の名前
応神の本来の名前は「ほむた」。漢字は鞆(とも)と書いて「ほむた、誉田」とも。
鞆(とも)とは何か。
弓を射る時につける道具。矢を放ったあとに弓の弦が腕や釧(くしろ)にあたってしまうのを防ぐ。応神天皇は弓(武術)、そして農業の神さまでもあるのだろうか。
※釧は腕輪、アクセサリーの一種
↓はwikipedia、鞆
■誉田別神と去来紗別神の名前交換エピソード(易名説話)
日本書紀、古事記にわけて紹介する。
日本書紀では。
応神天皇が越国(こしのくに)に行った際、角鹿の笥飯大神(つのがのけひおおかみ、気比神宮の祭神)を拝んだ。
そして誉田別神(ほむたわけのかみ)と去来紗別神(いざさわけのかみ)が名前を交換したと記述がされている。
それならもとは応神は去来紗別神なのか、見えるわけでもなく、未だ詳しくわからない、と日本書紀の作者たちは記述している。
その際に建内宿禰が夜、夢をみる。
伊奢沙和気大神之命(いざさわけのおおかみのみこと)が現れる。
伊奢沙和気大神は「吾が名を御子の名前と交換したい」と告げる。
以上のようなエピソードがある。
応神は敦賀、越国(こしのくに)とつながりのある人物であることがわかる。
↓wikipedia、氣比神宮,、福井県敦賀市曙町にある神社
↓はgooglemap、仲哀天皇角鹿笥飯宮跡、氣比神宮内に所在
goo.gl
■応神天皇の子、菟道稚郎子
応神天皇の子には仁徳天皇ほか菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこ)がいる。
菟道稚郎子は播磨国風土記・揖保郡の条では宇治天皇(うぢのすめらみこと)と称されている。
宇治天皇の時代の出来事として、風土記に次のエピソードがある(意訳あり)。
宇治天皇の世(みよ)に宇治連(うぢのむらじ)らの祖先、兄太加奈志(えたかなし)、弟太加奈志(おとたかなし)の二人が大田村の与冨等(よふと)の地を請いて、田をはり、種をまこうとしていたときの出来事。
使用人が物を担ぐ棒をもち、食事の道具などのものを担った。
このとき、物を担ぐ棒が折れた。
ゆえに鍋がおちたところを魚戸津(なへつ)となづけた。
さきの筥(はこ)が落ちたところは上筥岡(かみはこおか)となづけた。
うしろの筥がおちたところは下筥岡(しもはこおか)。
担っているものを担ぐ棒が折れたこところは朸田(あふこだ)とした。
■菟道稚郎子が大鷦鷯尊に皇位を譲る
菟道稚郎子は応神天皇40年に太子に立てられた。しかし応神天皇の死後、兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、仁徳天皇)に皇位を譲るため、自殺したとされる。なお、仁徳天皇は応神天皇の第4子にあたる。
■応神と仁徳の時代の意味を問う
・応神は生没年200年~310年で享年111歳(在位は270年~310年)まで
・仁徳は生没年257年~399年で享年143年(在位は313年~399年)まで
・この2人の在位を足すと126年ほど。1人1人が同一人物のエピソードとしている設定では当然ない。複数人の混合、史実部分もあれば造作も混在しているだろう。
・菟道稚郎子(宇治天皇)とは。景行天皇とヤマトタケルと同じようにヤマトタケルの活躍が景行天皇に投影されているのか。つまり、応神は菟道稚郎子なのだろうか。それとも異なるのか。
・誉田別神の去来紗別神の易名説話は何を示しているのか。
・応神、仁徳期で日本書紀作者たちは何を意図したのか。単に古い時代の話でわからなかったのか。
改めて日本史を考えなおす必要がある。
<参考>
・日本書紀(二)岩波文庫
・日本の豪族100 水谷千秋
・山代之大筒木真若王 - Wikipedia
・迦邇米雷王 - Wikipedia
・息長宿禰王 - Wikipedia