古代の天皇の宮とされる伝説の地を紹介していく。これより土地とそれに紐づくエピソードを探していく。今回はシリーズ第4弾、成務、仲哀天皇を次の流れで紹介する。
・第13代・成務天皇:志賀高穴穂宮
・成務天皇期の出来事
・成務天皇の人物関係
・第14代・仲哀天皇:志賀高穴穂宮、等
・仲哀天皇の人物関係
・古代における山口県
・朝鮮半島と倭国の4世紀から5世紀前半にかけての歴史
・仲哀と塵輪鬼
・まとめ
■第13代・成務天皇:志賀高穴穂宮
志賀高穴穂宮は景行天皇と同様の宮、滋賀県大津市穴太に比定されている。
なお纒向日代宮から志賀高穴穂宮まではどれくらいの距離かというと、ルートによるが64km~72kmくらいの距離。
景行の遷都後~第14代・仲哀までが志賀高穴穂宮であったとされている。
■成務天皇期の出来事
成務の時代に武内宿禰を大臣として大国、小国の国造を定めたとしている。成務が実在の人物とすれば4世紀中ごろの人物される。ただし実在した痕跡がみられない。宮が滋賀県にもかかわらず天皇陵は奈良県奈良市にあることも実在が懐疑的とする要因のひとつとなっている。
なお、成務天皇のものとされている陵は佐紀盾列古墳群のなかの佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん)。墳丘長は218m。築造は4世紀後半。鏡、玉、剣が出土している。
↓はgooglemapより、成務の天皇陵とされる佐紀石塚山古墳の場所
goo.gl
↓はwikipediaより、佐紀石塚山古墳の紹介
ja.wikipedia.org
成務天皇の母は美濃出身の八坂入媛命(やさかいりひめのみこと)。
ヤマトタケルの母は吉備系の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)。
この播磨稲日大郎姫が崩御したため八坂入媛命が景行天皇の皇后となった。
つづいて仲哀天皇について。
■第14代・仲哀天皇:志賀高穴穂宮、等
宮は志賀高穴穂宮。成務天皇と同様の宮で景行天皇から継続である。
そのほか、仲哀天皇は熊襲を討つため穴門(あなと、のちの長門国)の豊浦宮に滞在した。忌宮神社は山口県下関市長府宮の内町に所在する神社。この神社の駐車場近くに「仲哀天皇 豊浦宮皇居址記念碑」がある。
↓wikipediaより、仲哀天皇
↓忌宮神社
↓は仲哀天皇 豊浦宮皇居址記念碑
母は両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)で垂仁天皇(活目天皇)の皇女とされる。
■古代における山口県
仲哀、神功皇后の天皇紀においてなぜ倭国が朝鮮半島に進出、新羅遠征(三韓征伐)とと関連する。それはなぜだろうか。
先述の「忌宮神社」は下関市で関門海峡のエリア。大和から朝鮮に向かう際は必ず通る場所である。
また、過去記事にて三国志・呉と山口・周南市が交渉があったことを示した。
劉氏作神人車馬が増強の出土した竹島御家老屋敷古墳は建造は4世紀前半、古墳と周南市との距離は90kmくらいである。
↓過去記事、三国志の呉と山口県の関係
■朝鮮半島と倭国の4世紀から5世紀前半にかけての歴史
高句麗・広開土王碑は414年に建てられたもの。ヤマトタケルが九州~関東までを平定した後の歴史はどう展開されたのだろうか。
倭国が朝鮮半島へ進出し、高句麗がそれを退け広開土王碑が建設されるまでの過程が仲哀や神功皇后の歴史に込められているのだろうか。
百済は350年前後あたりから史実性が増すとされている。
百済の第13代の王・近肖古王(きんしょうこおう、在位では346年~375年、生誕年では不明~ 375年)の人物が現れる。
中国史料及び日本史料にはじめて名の現れる百済の王とされる。
↓wikipedia、近肖古王
■仲哀と塵輪鬼
仲哀は行幸中に熊襲が背いたため、これを討伐することを決意する。そして福岡市の橿日宮(かしいのみや)へと向かう。
そのとき仲哀の妃である神功皇后に新羅を治めるよう住吉三神からの神託がくだった。しかし仲哀はこれに従わなかった。このため命を落としたとされる。
この話の一方、塵輪(じんりん)という新羅から送り込まれた悪鬼に仲哀が立ち向かって討伐するという伝承がある。この戦いのさなかに流れ矢にあたり、仲哀天皇が亡くなったとされる。
↓歴史人、塵輪鬼に関するページより
■まとめ
・成務
ヤマトタケルと成務天皇は異母兄弟。
ヤマトタケル側の母は吉備系の播磨稲日大郎姫。
成務天皇の母は美濃出身の八坂入媛命。
・仲哀
仲哀天皇は日本武尊の第二子
母は両道入姫命
・山口県
三国志の呉と山口周南市が交渉「劉氏作神人車馬画像鏡」を受領した事実がある
仲哀や神功皇后に関する伝承が残っており新羅と関連する
<参考>
・日本書紀(二)岩波文庫
・ヤマトタケルの母:播磨稲日大郎姫 - Wikipedia
・成務天皇の母:八坂入媛命 - Wikipedia