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253.千葉県の公津原古墳群と印旛国造・伊都許利命に由来する麻賀多神社

今回は公津原古墳群を紹介する。そして公津原古墳群の近くに所在する麻賀多神社とその神社に関連する伊都許利命を取り上げる。次の流れで紹介していく。

・公津原古墳群
  ・1.瓢塚古墳群(ひさごづかこふんぐん)
  2.天王・船塚古墳群(てんのう・ふなつかこふんぐん)
  3.八代台古墳群(やつしろだいこふんぐん)
麻賀多神社
・伊都許利神社
・伊都許利命と伊都許利神社の起源
・考察~麻賀多神社の「麻賀多」と伊都許利命の「許利」からわかること
まとめ

■公津原古墳群
公津原古墳群の所在は成田市加良部ほか(成田市内の赤坂、橋賀台、松崎)。
成田ニュータウンの建設に伴い1969年~1971頃に64基の古墳が発掘調査された。
その後、あわせて総数で120基を超える古墳の存在が判明。
分布の状況から3つの支群にわけられている。
古墳の造営は4世紀の前半から始まり終了は7世紀の後半。
ニュータウンの開発によって消滅した古墳も多いとされる。
天王・船塚古墳群には6世紀代と推定される大型古墳が存在するが7世紀に入ると大型古墳が造られなくなる。

他地域の龍角寺古墳群では岩屋古墳(方墳、1辺は78m)やみそ岩屋古墳(方墳:35m×30m)が造られた。これと比べ対照的であるとされる。
↓はgooglemap、公津原1号墳

goo.gl

以下で3つの支群を紹介。

■1.瓢塚古墳群(ひさごづかこふんぐん)
前方後円墳:1基
・方墳:19基
・円墳:30基
計50基
↓は古墳マップ、古墳についていくつか写真の掲載あり

kofun.info

■2.天王・船塚古墳群(てんのう・ふなつかこふんぐん)
前方後円墳:3基
・方墳:9基
・長方墳:1基
・円墳:33基
計43基
天王塚古墳(公津原21号墳)は前方後円墳、全長63m。
↓はgooglemap、天王塚古墳(公津原21号墳)

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船塚塚古墳(公津原8号墳)は長方墳、全長85mの長方形、6世紀前半の築造
↓はgooglemap、船塚塚古墳

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■3.八代台古墳群(やつしろだいこふんぐん)
前方後円墳:3基
・方墳:6基
・円墳:25基
・計:34基
うち8号墳は前方後円墳、全長23m
↓はgooglemap、八代台古墳群
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↓にて個人の方のブログ、公津原古墳群の紹介あり

ameblo.jp

麻賀多神社
公津原古墳群の赤坂公園からおよそ2kmほどの距離に所在。千葉県成田市台方。
印旛国造(当時の大和朝廷の地方長官)の伊都許利命(いつこりのみこと)が麻賀多神社大神として崇めたとされることに由来。
平安時代に編修された「延喜式神名帳」に記載されている延喜式内社。

御祭神は古事記では和久産巣日神とされる。
和久産巣日神古事記では食物神のトヨウケビメ豊受比売神)を生んだ。
日本書紀ではその体から蚕と五穀が生じたとされる。

↓は麻賀多神社

makata-jinja.com

↓は國學院大學「古典文化事業」神名データベースより、和久産巣日神(わくむすひのかみ)
和久産巣日神 – 國學院大學 古典文化学事業

■伊都許利神社
神社の創祀年は不詳。
公津原古墳群の39号墳は全長36m、高さ5mの方墳が伊都許利命の墳墓と伝わっているとされる。

■伊都許利命と伊都許利神社の起源
「伊都許利神社々務所」の看板にて伊都許利命や日本武尊との関わりについて次のことが示されている。
神武天皇の皇子、神八井耳命(かんやいみみのみこと)の八代目の御孫
応神天皇の命を受けて印旛國造としてこの地方を平定した
・産業の指導などで多くの功績を残した
・その昔、日本武尊が東征の際に大木の虚(うろ)に鏡をかけ根本に七つの玉を埋め、伊勢神宮に祈願した
 ・日本武尊命は「この鏡をあがめ祀れば永く豊作が続く」との教を聞いた。その鏡をご神体としてこの地に稚日霊命(わかひるめのみこと)を(手里神社)祀った
・その後、霊示によって七つの玉を掘り出し稚産靈命(台方神社)を祀った
↓はgooglemap、伊都許利神社、麻賀多神社内にある

goo.gl

↓は神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識 伊都許利神社 にて伊都許利神社の看板画像あり
http://www.komainu.org/chiba/naritasi/ItukoriFunakata/yuisho.html

■考察~麻賀多神社の「麻賀多」と伊都許利命の「許利」からわかること~
・伊都許利命は皇族。神武天皇の皇子、神八井耳命(かんやいみみのみこと)の八代目の御孫とされる。
神武天皇は実在の人物ではないが、天之御中主神のこと。ヤマトタケルの史実などから神話化された人格。

麻賀多神社の「麻賀多」は「勾玉」を想起する。伊都許利神社の由来にヤマトタケルの東征と鏡や伊勢神宮が関わっている。また7つの玉とは勾玉だろう。「麻賀多」は「勾玉(まがたま)」から由来しているとしているのではないだろうか。

・伊都許利命はいつの時代の人物だろうか。応神天皇誉田別尊)の命を受けたとされる。応神天皇の生没年は201年~310年の人物だが実際は4世紀末から5世紀初頭の人物と考えられている。

・伊都許利の名前と役職について。伊都は伊都国の伊都だろうか。「許利(ごり」は何を意味するだろうか。卑弥呼が238年に帯方郡に都市牛利(つしごり)と大夫の難升米(なしめ)を遣わした。そのときの「都市牛利」の「牛利」は官吏と考えられている。よって伊都国から遣わされた官吏だろう。

・結論:
伊都許利は皇族であり伊都国から派遣されたヤマト王権直轄の官吏。
國造・地方官として産業の発展に貢献するため印旛の地に派遣され活躍した。

■まとめ
公津原古墳群
・所在は成田市加良部ほか、造営は4世紀から7世紀の後半まで
・総数で120基を超える古墳の存在が判明、3つのエリアにわけられる
 ・瓢塚(ひさごづか)古墳群は計50基
 ・天王・船塚(てんのう・ふなつか)古墳群は計43基
 ・八代台(やつしろだい)古墳群は計34基

麻賀多神社
・所在は千葉県成田市台方、公津原古墳群と近い
・伊都許利命(イツコリノミコト)が麻賀多神社大神として崇めたとされることに由来

伊都許利命
「伊都許利神社々務所」の看板によれば
神武天皇の皇子、神八井耳命(かんやいみみのみこと)の八代目の御孫
応神天皇の命を受けて印旛國造としてこの地方を平定、産業を指導した

公津原古墳群や近くの麻賀多神社といった土地は伊都許利命、日本武尊との東征や鏡、勾玉と関わりがみられた。

<参考>
公津原古墳群/千葉県
都市牛利 - Wikipedia
ワクムスビ - Wikipedia
・↓は千葉県成田市 ふるさとのあゆみ。印旛郡公津村の合併の歴史が紹介されている。
https://www.city.narita.chiba.jp/content/000023434.pdf

コリ (称号) - Wikipedia