古代の天皇の宮とされる伝説の地を紹介していく。これより土地とそれに紐づくエピソードを探していく。
今回はシリーズ第10弾、安康天皇・穴穂を紹介する。前編とし、下記の「穴穂皇子と木梨軽皇子の鉄と銅の争い」を紹介しつつ、安康天皇が即位するまでを取り上げる。
・第20代・安康天皇:石上穴穂宮
・家族関係
・在位
・穴穂皇子と木梨軽皇子の鉄と銅の争い
・安康天皇の即位
■第20代・安康天皇:石上穴穂宮
石上穴穂宮跡の所在は奈良県天理市田町。石上神宮とは2.4kmほどの距離にある。
↓は石上穴穂宮の所在地
近くに穴穂神社がある。俗に貴船社とも。
祭神は高龗神(たかおかみしん)とされる。
明治初年に穴穂神社に改称している。
高は山峰(さんぽう)を表す。
龗(おかみ)は水を司る蛇体の神とされる。
■家族関係
父は允恭天皇。
母は忍坂大中姫。
兄弟、姉妹としては雄略天皇、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)、軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)らがいる。
■在位
在位は453年~456年。
■穴穂皇子と木梨軽皇子の鉄と銅の争い
最初、木梨軽皇子が皇太子となる。しかし軽大娘皇女との近親相姦や、暴虐、群臣に従わないなどの行為をした。
↓允恭の子供、木梨軽皇子について前記事で紹介
このため、穴穂皇子が候補となる。
木梨軽皇子が密かに戦をおこそうとする。
これに対し、穴穂皇子は兵を興して戦おうとする。
これよって軽括箭(かるや)、穴穂括箭(あなほや)が起こったとされる。
かるや、あなほやとは何か。
「かるや」は木梨軽皇子が使った銅鏃の武器。
「あなほや」は穴穂皇子が使った新しい鉄鏃の武器。
↓は文化遺産オンライン 銅鏃
↓は文化遺産オンライン 鉄鏃
この新旧武器の戦いに敗れた木梨軽皇子は物部大前宿禰の家に逃げ込んだ。
穴穂皇子はその家を囲む。
物部大前宿禰は門の前にでて穴穂皇子を迎えた。
穴穂皇子は次の歌をよむ。
大前(おおまえ) 小前宿禰(こまえすくね)が
金門陰(かなとかげ)
かく立ち寄らね
雨立ちやむ
意味:みんな このように 大前小前宿禰の家に立ち寄って 雨宿りをしよう
大前宿禰は歌を返した。
宮人(みやひと)の
足結(あゆひ)の小鈴
落ちにきと
宮人動む(とよむ)
里人(さとびと)もゆめ
意味:宮廷にお仕えする人の 足結につける小鈴が落ちたと人々がどよめいている。
里に退出している人々も気をつけなさい。
足結とは、動きやすくするために袴の上から結ぶ紐。
この紐に鈴や玉などを紐につけることもあるとされる。
木梨軽皇子は自決、あるいは伊予の国に流されたと伝えられている。
↓は愛媛県神社庁、軽之神社(愛媛県松山市)
軽之神社 « 愛媛県神社庁
昔は斯多那岐宮と呼ばれていたとされる。
■安康天皇の即位
穴穂皇子は即位する。
皇后(忍坂大中姫)を尊んで、皇太后とする。
そして都を石上にうつし、穴穂宮とした。
■まとめ
・安康天皇の別名は穴穂
・宮(跡)は石上穴穂宮、奈良県天理市田町
・ヤマト王権の武器庫かつフルの神を祀っていた石上神宮との距離は2.4km程度
・安康天皇にとって、木梨軽皇子、雄略天皇は弟
・天皇の座をめぐって安康(穴穂)と木梨軽皇子が争った。戦いは鉄と銅の戦いでもあった。勝者の穴穂は鉄鏃を、敗者の木梨軽皇子は銅鏃を使った。
・物部大前宿禰のところに木梨軽皇子が逃げ込む。信仰、最先端の武器を扱う中立者、テクノクラート的な存在か。
・木梨軽皇子はおそらく伊予の国に流された(自決ではなく)
<参考>
・日本書紀(二)岩波書店
・225.古代の宮⑨~允恭天皇、即位を願う忍坂大中姫とのエピソード~ - シン・ニホンシ
・草香幡梭姫皇女 - Wikipedia
・反正天皇(瑞歯別)の娘たち:反正天皇 - Wikipedia の「后妃・皇子女」