シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

155.古代中国や朝鮮からの渡来:辰孫王、王仁、阿智王、安貴公

3世紀初頭~7世紀初頭にかけては中国、朝鮮(日本含む)とも動乱が起こり、それから逃れるために日本に渡来した人々も多かった。朝鮮または中国に出自を持つ方々で応神天皇雄略天皇の時代に渡来したとされる、辰孫王、阿知使主、王仁博士と安貴公を紹介する。

■辰孫王(しんそんおう
応神天皇の時代に渡来したとされる。百済の王族とされ、近仇首王の孫で、辰斯王の息子。祖父の近仇首王の命を受けて王仁と一緒に「論語」10巻と「千字文」1巻をもたらした。船で全羅南道霊岩郡から日本に渡った。菅野氏と葛井連の始祖とされる。渡来した王仁と同一人物とする説もみられる。応神天皇は生年で200~310年、在位で270~310年とされる。一方、第16代百済王・辰斯王の在位は385年 - 392年頃のため、実際の渡来との整合性は不明。

王仁(わに)
応神天皇の時代に渡来したとされるが、5世紀とする説も。日本書紀では王仁古事記では和邇吉師(わにきし)とも。もとは百済に渡来した漢人とされる。百済人の使者阿直岐(あちき)を介し、辰孫王と共に百済から日本に渡来した。古事記千字文論語を伝えたと記述がある。西文首(かわちのふみのおびと)の祖とされる。
参考①:王仁と似た出自を持つ「王辰爾(おうしんに)」が存在する。

■阿知使主(あちのおみ)/阿智王
応神天皇の時代に渡来したとされる。3世紀 - 4世紀頃あるいは5世紀前半の人物とされる。阿智王とも。後漢(25年-220年)の霊帝(第12代、在位168年 - 189年)の末裔とされる。百済王が馬2匹を阿知吉師につけて貢上したとするほか、七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)などを連れてきたとされる記録が残る。阿智王の末裔の氏族に東漢氏がいる。下総守の坂上苅田麻呂はその末裔にあたる。苅田麻呂の子が坂上田村麻呂はの子。平安時代の初期に征夷大将軍として蝦夷(えみし)(現在の東北地方)の討伐の任を受けた。 
参考:第15代応神天皇皇子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は王仁阿直岐より文章を習ったとされる。菟道稚郎子応神天皇40年に皇太子となり、また応神天皇もその翌年崩御する。菟道稚郎子を基準とすると王仁や阿知使の渡来は300年前後が考えられる。しかし、今度は上記の辰孫王の時代との整合性の問題が起こる。

■安貴公(あんきこう)
雄略天皇の時代(在位:456年-479年)に渡来したとされる。魏(220年 - 265年)の文帝(初代皇帝)の末裔とされる。雄略天皇(在位:456年-479年)の御世に四部の衆を率いて帰化したとされる。飛鳥時代の貴族、幡文 通(はたのあや の とおる)は安貴公を祖とする。
■まとめ
王仁博士:西文氏の祖、和邇吉師とも
・阿知使主:東漢氏の祖
■感想
・記録に残るのは当時に名前を持っていた王族にまつわる方。さらに渡来後に活躍し、新撰姓氏録という名前の出自に残った日本において一族の祖となった方が中心となる。
・中国および朝鮮半島を中心とした動乱、民族が入り乱れながら、日本は200年代後半~600年代頃にかけて断続的に渡来人を受け入れていく。

<参考>
・日本の古代豪族100 水谷千秋
幡文通 - Wikipedia
魏 (三国) - Wikipedia
近仇首王 - Wikipedia
王辰爾 - Wikipedia
辰斯王 - Wikipedia

新撰姓氏録 - Wikipedia
・『新撰姓氏録』の証言 古田史学会報 二十九号
東文氏 - Wikipedia

阿知使主 - Wikipedia
阿直岐 - Wikipedia
七姓漢人 - Wikipedia王仁 - Wikipedia
文章学社のはなし|太平山神社 公式ホームページ

坂上苅田麻呂 - Wikipedia
坂上田村麻呂 - Wikipedia