シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

118.「正倉院」や沖ノ島「宗像大社」にエジプト、イラン、トルコなど西方由来のモノが辿り着いた

オリエント的なエジプト、イラン、トルコなど西方から辿り着いた"モノ"が「正倉院」に残っている。正倉院とは何か。何なのかがわかると、歴史的価値やその交流ルートから商人や民族の移動ルートが推測できるようになる。次の流れで紹介していく。

正倉院宝物の始まり
・収蔵されているものにはどんなものがあるか検索できる
正倉院シルクロードの終着点
シルクロードのルート
・海の正倉院といわれる沖ノ島宗像大社
・まとめ

正倉院宝物の始まり
奈良時代、756年、聖武天皇七七忌の忌日に光明皇后天皇の御冥福を祈念し、遺品や愛憎品など六百数十点を東大寺の本尊盧舎那仏(大仏)に奉献した。皇后の奉献は前後五回におよんだという。その品々は同寺の正倉、現在の正倉院宝庫に収蔵された。これが正倉院宝物の起こりといわれている。

■収蔵されているものにはどんなものがあるか検索できる
下記で紹介する正倉院の公式HPにいき、トップバナーの「正倉院宝物検索」にて宝物を探すことができる↓
正倉院のサイト :トップ - 正倉院 (kunaicho.go.jp)
たとえば一般的に有名な白瑠璃碗(カットグラス)はササン朝ペルシアなどからシルクロードで運ばれたものの代表例だ。そのほか、何かおもしろいものを探してみよう。例えば「遊戯具」を調べてみる。すると双六が見つかった。双六は中国から伝わったものとされる。この双六、実は発祥はメソポタミア。紀元前3,000年頃始まったとされる。民族が移民となって時間、空間をまたぎながら徐々に運ばれたオリエント的なモノはまだまだ存在する。

正倉院シルクロードの終着点
正倉院に収蔵されているものの中には8世紀の主要文化圏である中国のほか、インド、イラン、ギリシャ、ローマ、エジプトなど様ざまな国のものがある。特にシルクロードを通じペルシャやインドなど世界の文物(ぶんぶつ)が唐の都である長安へと集まってきた。そして唐、新羅渤海(ぼっかい)などから船で日本へと運ばれ、西方由来のものが結果として収蔵されていくことに。これが「正倉院シルクロードの終着点である」と言われるゆえんだ。正倉院の宝物は、単に奈良時代の日本文化を残すだけではなく、「八世紀の世界文化」を代表する貴重な古文化財となっている。

シルクロードのルート
ルートを把握しよう。複数のルートがある。
・1つめ:陸(草原)のシルクロード中央アジアを通る。
・2つめ:陸(砂漠)のシルクロード。こちらはローマなどを出発、バグダッドテヘランを経て、タクラマカン砂漠を通る。タクラマカン砂漠とは現在の中国・新疆ウイグル自治区に属し、南は崑崙山脈、西をパミール高原、北を天山山脈、東をゴビ砂漠に囲まれた砂漠。
・3つめ:海のルート。ローマからスエズ湾を通り、インド、スリランカの間を渡り、沿岸沿いに渡って、マラッカ海峡を抜けて日本や唐へと至るルート。

■海の正倉院といわれる沖ノ島宗像大社
海のルートとして、日本にとって「沖ノ島」はシルクロードの「海の入り口」にあたる島。その沖ノ島の中に「宗像大社」はある。島全体が遺跡になっている。沖ノ島玄界灘に位置する。対馬から75km、韓国本土からは145kmにあたる。1954年に初めて祭祀遺跡の学術調査が行われた。現在、4世紀~10世紀にわたる、12万点以上の祭祀遺品が出土しており、それが神宝館に収容されている。その宝物の多さから「海の正倉院」と言われている。

■まとめ
シルクロードを通し西方由来の物が日本に伝わった
・ガラス工芸品などはペルシャ(イラン)の特徴のひとつ
・8世紀時点で日本は中国、新羅渤海と海路で交易、港とつながっていた
・海の正倉院沖ノ島の「宗像大社」は4~10世紀のモノの出土あり
<参考>
正倉院ってなんだろう? | 正倉院展(しょうそういんてん)キッズサイト (shoso-in.jp)
神宿る島・沖ノ島 「海の正倉院」と呼ばれる神宝を抱く宗像へ(福岡) – VOYAGE -世界見聞録-
歴史散歩道 http://v-rise.world.coocan.jp/rekisan/htdocs/infoseek090519/kyusyu/hakata/munakata.htm