前記事では阿蘇ピンク石を取り上げた。今回も阿蘇の石つながりにて、石人石馬を取り上げる。次の流れで紹介していく。
・石人石馬
・石人石馬の種類
・八女古墳群の岩戸山古墳
・八女古墳群
・鳥取県・石馬谷古墳
・石人・石馬が見つかっている古墳
・参考:石人・石獣とシルクロード
■石人石馬
5世紀~6世紀にかけて古墳の墳丘上に並べられたとされる人物や馬など石製の象形遺物の総称。
計17か所でみつかっているとされる。
九州では阿蘇溶結凝灰岩を使用。
九州以外では鳥取が唯一の例。
大山(だいせん)から産出される角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)を使用している。
■石人石馬の種類
人物、動物、器財などで、その種類は形象埴輪と共通するという。
よって埴輪を石に移したものと考えられている。
人物:武装、裸体など
動物:馬、鶏、水鳥、猪など
器財:靫(ゆき)、盾、刀、坩(つぼ)、蓋(きぬがさ)、翳(さしば)、腰掛
があるという。
記録では石殿、石蔵なども存在してたようだ。
赤、緑で彩色されているものもあるという。
↓は八女市・石人・石馬のページ、画像で石人石馬が確認できる
↓は文化遺産オンライン、八女市 岩戸山古墳から出土した石人。
↓は文化遺産オンライン、石人 美豆良(みずら)をし刀子(とうす、物を削る)を携えた人物
↓は文化遺産オンライン、石盾
■八女古墳群の岩戸山古墳
岩戸山古墳の被葬者は6世紀初頭、北部九州を支配した筑紫君・磐井と考えられている。
筑後国風土記の逸文にて磐井君の場所や大きさ、石人石馬と思われる記述がある。
形状は前方後円墳。
大きさは墳長170m。
周濠、周堤がある。
墳丘、周堤、別区から石人石馬が100点以上出土、他の古墳の出土数を圧倒するという。
筑紫君・磐井は527年(継体天皇21年)、大和朝廷へ反乱を起こしたという。近江毛野(おうみのけな)が朝鮮半島南部へ出兵するため、大和朝廷軍を進軍させようとしていた。これを筑紫君磐井が阻止した。
これを原因として磐井軍は翌528年に物部麁鹿火によって鎮圧された。
↓は八女市、岩戸山古墳
↓はwikipedia、岩戸山古墳
↓は磐井の乱について取り上げた回
■八女古墳群
福岡県の八女市、八女郡広川町、筑後市にある古墳群。
八女丘陵に、4世紀から7世紀にかけて約300基の古墳が築造された。
北部九州に勢力をもっていたとされる筑紫君磐井と一族の墳墓と考えられている。
国の史跡「八女古墳群」は
・石人山古墳(せきじんざんこふん):5世紀前半~中頃
・岩戸山古墳(いわとやまこふん):6世紀前半
・善蔵塚古墳(ぜんぞうづかこふん):6世紀前半~中頃
・乗場古墳(のりばこふん):6世紀中頃
・弘化谷古墳(こうかだにこふん):6世紀中頃(装飾古墳、文様に双脚輪状文が存在)
・丸山塚古墳(まるやまづかこふん):6世紀後半
・丸山古墳
・茶臼塚古墳(ちゃうすづかこふん):6世紀後半
である。
八女丘陵において4世紀は方形周溝墓、円形周溝墓の時代であったとされる。
前方後円墳がみられるようになるのは5世紀前半の石人山古墳であるという。
この石人山古墳は筑紫君磐井の祖父の墓と推定されている。
岩戸山古墳は6世紀前半、八女最大の前方後円墳。
上述のとおりで筑紫君磐井の墓と比定されている。
↓はwikipedia、八女古墳群
■鳥取県・石馬谷古墳
所在は鳥取県米子市淀江町福岡。
形式は前方後円墳。
築造は6世紀中葉。
石馬が出土、石材は大山(だいせん)から産出される角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)を使用している。
江戸時代には「石馬大明神」として祀られていたという。
↓米子市のページにて、出土した石馬が画像にて公開されている
国指定重要文化財 石馬/米子市ホームページ
■石人・石馬が見つかっている古墳
以下の古墳で石人石馬が見つかっている。
阿蘇溶結凝灰岩が使われ、鳥取県の石馬谷古墳では大山の角閃石安山岩が使われた。
熊本
・チブサン古墳(熊本県山鹿市): 石人
・三の宮古墳(熊本県荒尾市):石人
・江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町):石人
大分
・臼塚古墳(大分県臼杵市):石甲
・下山古墳(大分県臼杵市):石甲
福岡
・乗場古墳(福岡県八女市):石人
・鶴見山古墳(福岡県八女市): 石人
・岩戸山古墳(福岡県八女市):石人、石馬、石鶏、石猪、石盾、石壺、石刀、石靫、石蓋
・石人山古墳(福岡県八女郡広川町) : 石人
・石神山古墳(福岡県みやま市):石人
■石人・石獣とシルクロード
かつて石人・石馬は中国南朝の石人・石獣の影響ではないかと研究史上では考えられたこともあるという。
しかし現在では畿内の象形埴輪の影響、九州では石材を使用したものと考えられている。
この石人・石獣について。
前漢の皇帝・武帝の墓が茂陵(もりょう)。
その臣下の霍去病(かくきょへい)。
霍去病は生没年、紀元前140年頃~紀元前117年頃とされる。
この霍去病の墓地に「馬踏匈奴」がある。
霍去病は匈奴と戦った。
紀元前4世紀頃より中国は遊牧騎馬民族の侵入を受け続けたとされる。
前漢・武帝の時代に張騫が西域へ赴き(前139年、前115年)、バクトリア(大夏)やフェルガナ(大苑)にたどりついた。
これによって西域の情報が中国にもたらされた。
漢軍は前104年、前102年、前42年にパミール高原を超えて進軍。
バクトリア、フェルガナ、ソグディアナ(元ギリシャ系の王国)に達して匈奴およびその捕虜であったローマ人兵士の軍団に勝利したという。
これによって中国と西域の交易路であるシルクロードが開かれたという。
参考:武帝の茂陵について
所在は咸陽市。
形状は方錐。
面積は5400平方メートル。
20ヶ所ほどの陪塚があり方形、円形、山形などの種類が存在するという。
<参考>
・石人石馬 - Wikipedia
・風土記 下 角川ソフィア文庫 中村啓信監修・訳注
・岩戸山古墳 - Wikipedia
・石人山古墳 - Wikipedia
・石馬谷古墳 - Wikipedia
・張騫 - Wikipedia