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212.埼玉のさきたま古墳群と埼玉県名の由来

さきたま古墳群とはなにか。さきたま古墳群を知ることで埼玉県の由来がわかる。

■さきたま古墳群
所在は埼玉県行田市埼玉(ぎょうだしさきたま)。400年代の後半に埼玉県行田市埼玉に墳丘長120mの稲荷山古墳がつくられ、この地で新たな歴史が始まる。前方後円墳8基、大型円墳2基、方墳1基と小円墳群から構成される古墳群。5世紀後半から7世紀中頃にかけて建造されていった。

■稲荷山古墳
形式は前方後円墳。全長は120m。建造は5世紀後半。稲荷山古墳出土鉄剣と名付けられた鉄剣が出土。金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)とも称される。鉄の素材に名前部分に金が埋め込まれている。これには高い技術を必要とする。

■金錯銘鉄剣
日本史をつなぐ超一級資料。江田船山古墳出土の鉄剣とともに雄略(ワカタケル)の存在を示す。西暦471年(辛亥年)、「ヲワケの臣」または「ヲワケコ」が杖刀人首(杖刀人のトップ)として「ワカタケル大王(雄略)」に仕えたことを示す。

参考①:詳細はさきたま史跡の博物館↓
金錯銘鉄剣 - 埼玉県立さきたま史跡の博物館 (spec.ed.jp)

参考②:鉄剣に記された文字の全文は下記wikipediaを参照のこと↓
稲荷山古墳出土鉄剣 - Wikipedia

■二子山古墳 
形式は前方後円墳。全長は132m。建造は6世紀前半。埼玉県として最大の前方後円墳。造り出しがある。稲荷山古墳の1.15倍が二子山古墳とされる。
wikipedia、二子山古墳のイメージ

ja.wikipedia.org

■瓦塚古墳 
形式は前方後円墳。全長は73m。建造は6世紀前半。 瓦塚古墳の中堤に並んでいた形象埴輪の中に「弾琴男子人物埴輪」がある。長い美豆良、琴、ばち、短剣、胡座(こざ、あぐら)の姿勢などから高貴な人物とされる。
詳細、画像などが確認できる↓
弾琴男子人物埴輪 - 埼玉県立さきたま史跡の博物館

■丸墓山古墳
形式は円墳。全長は105m。建造は6世紀初め。日本最大級の円墳。1590年頃、豊臣秀吉が天下統一を進める家臣の石田三成忍城を水攻めにする。その際、忍城がよく見える
丸墓山古墳の上に陣を張ったという伝承が残っている。
参考:丸墓山古墳 - 埼玉県立さきたま史跡の博物館

■奥の山古墳
形式は前方後円墳。全長は66m。建造は6世紀中頃。
参考:奥の山古墳 - 埼玉県立さきたま史跡の博物館

■鉄砲山古墳
形式は前方後円墳。全長は107m。建造は6世紀後半。

■将軍山古墳
形式は前方後円墳。全長は90m。建造は6世紀後半。明治時代に後円部に造られた横穴式石室が発掘され馬のカブトである馬冑(ばちゅう)、蛇行状鉄器(馬に旗をジョイントさせる金具)、銅鋺(どうわん)、環頭大刀(かんとうのたち)など多くの副葬品が出土。

なお、馬冑の出土は日本でもわずか3例。この将軍山古墳のほか、大谷古墳(和歌山県和歌山市)、船原古墳(福岡県古賀市)。

遺構、遺物の保存活用、墳丘や堀の復元、そして石室の内部の見学を目的とし、将軍山古墳内に将軍山古墳展示館が設置された。
↓はニッポン旅マガジン・将軍山古墳展示館より

tabi-mag.jp

愛宕山古墳
形式は前方後円墳。全長は54m。建造は6世紀後半。
参考:愛宕山古墳 - 埼玉県立さきたま史跡の博物館

■中の山古墳
形式は前方後円墳。全長は79m(推定)。建造は6世紀末~7世紀初め。埼玉古墳群での最後の前方後円墳

以降で埼玉県の由来を紹介していく。

■埼玉県名の由来
行田市の埼玉(さきたま)の地が古来において中心地であったことに基づく。明治4年現在の埼玉県の県域に「埼玉県」「入間県」を設置する太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生とされる。その後の変遷を経て明治9年に現在の区域での埼玉県が定まった。もっとも面積の広かった「埼玉」が県名として採用された。歴史的にも行田市は古代の要衝の地であった。以下に3つの根拠を示す。

万葉集と万葉歌碑
万葉集」に「さきたまの津」という記述がある。さきたま古墳群のある、さきたま古墳公園とも近い前玉神社(さきたま神社に)万葉集の歌碑が現存している。「万葉集」には4千5百首ほどの歌が掲載されている。うち日本全国に2000基ていどの「万葉歌碑」が存在するそうだ。前玉神社の歌碑はそのうちのひとつ。1697年(元禄10年)に氏子たちが立てたものとされる。「小崎沼(おさきぬま)」と「埼玉の津」の歌が刻まれているとされる。「さきたまの津」は河港であり、さきたま古墳群を築いた一族の拠点として古墳に使われた石をはじめとし、多くの物資、文化が行きかった。
↓の横田酒造株式会社のHPにて詳細が確認できる

yokota-shuzou.co.jp

正倉院文書
726年(神亀3年)の山背(やましろ)国戸籍帳に「武蔵国前玉郡」の表記があるとされる。

延喜式
延喜式神名帳埼玉郡の項に「前玉神社二座」の文字がみえるとされる。

以上、万葉集正倉院文書、延喜式の3点において前玉(さきたま)が古くからの埼玉の中心的な地域であったことがわかる。

■まとめ
・さきたま古墳群は埼玉県行田市埼玉に位置、5世紀後半から7世紀中頃にかけて建造。
・稲荷山古墳(5世紀後半)より金錯銘鉄剣が出土。西暦471年、雄略(ワカタケル)の実在の根拠になっている。
・将軍山古墳(6世紀後半)から馬冑や馬と旗をつなぐ蛇行状鉄器が出土。馬冑の出土は将軍山古墳、大谷古墳(和歌山県和歌山市)、船原古墳(福岡県古賀市)の3例のみ。
・瓦塚古墳(6世紀前半)の中堤に並ぶ形象埴輪に「弾琴男子人物埴輪」があり、長い美豆良、琴、ばち、短剣、胡座(こざ、あぐら)の姿勢などから高貴な人物とされる。
・埼玉県の県名の由来は前玉(さきたま)郡から来ている。

■感想
・埼玉はのちに高句麗(高麗)や新羅(新座など)を受け入れるなど、埼玉は群馬や茨城(日高見国)とも隣接する結節点の地。

・5世紀当時、土地に余力もあり、かつ陸路の要衝の地として群馬と共に国際色豊かな役割を果たしていたのでは。

・雄略はなぜ江田船山(熊本県邪馬台国)、さきたま古墳群(埼玉)の地に鉄剣を与えたのだろうか。そして鉄剣を授与するという行為とは。鏡(おもに中国との関係性)から鉄剣へと威信財の象徴が遷移しているのだろうか。

<参考>
埼玉古墳群紹介 - 埼玉県立さきたま史跡の博物館
埼玉古墳群 - Wikipedia
埼玉県の古墳一覧 - Wikipedia