シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

211.群馬の大室古墳群と上野地域の3つの特殊性

本記事では群馬の「大室古墳群」を紹介する。あわせて「毛野」とは何かについて紹介、古代の群馬の3つ特殊性、そして記紀に登場する豊城入彦命を紹介する。以下の流れで紹介していく。

・大室古墳群(前橋市
・前二子古墳
・中二子古墳
・後二子古墳
・小二子古墳
・本郷埴輪窯址群
・梅木遺跡
・大室公園内の遺跡
・各建造物の年代
・毛野
・上野地域
・上野地域の3つの特殊性
豊城入彦命

■大室古墳群(前橋市
大室古墳群の群馬の前橋の古墳群にあたる(長野市にも同名の古墳群がある)。所在は群馬県前橋市東大室町・西大室町。「赤城山」の南麓の城南地区に分布している。前二子古墳、中二子古墳、後二子古墳、小二子古墳は6世紀初頭から6世紀後半にかけての建造。ほかM1号墳、M4号墳、小円墳群が存在した。

参考:保渡田古墳群は榛名山側、建造は5世紀後半~6世紀初頭。大室古墳群と比べ保渡田古墳群のほうが建造が早い。

■前二子古墳
  築造は6世紀初頭、形式は前方後円墳。墳丘長は94mで高さは14m。兆域(墓のある区域)は全長148m。
↓下記は文化遺産オンライン、前二子古墳

bunka.nii.ac.jp

■中二子古墳
 築造は6世紀前半、形式は前方後円墳。墳丘長は111mで高さは15m。兆域は全長170m。大室古墳群最大の前方後円墳。中堤、墳丘テラス、墳頂に埴輪が配置、およそ3000本ほどが並べられていたと推定されている。その埴輪は円筒埴輪、盾持ち人、鞆(とも)、大刀、靫(ゆき)、翳(さしば)などの形象埴輪。
↓下記は文化遺産オンライン、中二子古墳
bunka.nii.ac.jp

■後二子古墳
 築造は6世紀後半、形式は前方後円墳。墳丘長は85mで高さは11m。兆域は全長106m。
↓は前橋まるごとガイド、後二子古墳より

www.maebashi-cvb.com

■小二子古墳
 築造は6世紀後半、形式は前方後円墳。墳丘長は38mで高さは5m。兆域は全長44m。
↓は前橋まるごとガイド、小二子古墳より

www.maebashi-cvb.com

■本郷埴輪窯址群
本郷埴輪窯址は2地域(太田地域、藤岡地域)の埴輪の一大生産地。中二子古墳の埴輪の胎土(たいど)から海綿骨針化石、結晶片岩砂粒が検出されている。おそらく本郷埴輪窯址群で中二子古墳の埴輪が生産されたものではないかと推測されている。
※胎土:土器や陶磁器を製作する際、原材料として使用された土。
↓は藤岡市HP、本郷埴輪窯址より

www.city.fujioka.gunma.jp

■梅木遺跡(うめのきいせき)
豪族が居住していた館の跡地を主体とする遺跡。所在は大室公園内、赤城山の南麓に位置する。館は堀と柵で仕切られていた。その堀の一辺は外側約85m(内側は約65m)で正方形。6世紀初頭に榛名山から噴出した火山灰が堀の底に堆積している。このことから館は5世紀後半に建造、6世紀初頭まで使われたと考えられている。

■大室公園内の遺跡
調査によって約28,000年前の旧石器時代の石器が多数発見されている。また5,000年前の縄文時代の住居跡も発見されている。この地区に古い時代から人々がくらしていたことがわかる。4世紀には家が立ち並び、生活が営まれていた。また周溝墓も多数発見されている。

■各建造物の年代
時代的にはまず周溝墓の墓制があった地域。そして5世紀後半に豪族の館(梅木遺跡)、そして6世紀初頭~6世紀後半にかけて前方後円墳の前二子、中二子、後二子、小二子が建造されていった。

■毛野 
古墳時代の地域、文化圏の1つで群馬県と栃木県南部を合わせた地域。先に毛野があり、その後に上毛野(かみつけの)、下毛野(しもつけの)にわかれたのではないかとされる。さらに律令制施行後に上毛野は上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)に、下毛野は那須(栃木県北部)を加え下野国(しもつけのくに:ほぼ現在の栃木県に匹敵)へと定められた。

■上野地域
この上野(群馬)の地域におおよそ次の順で古墳が建造されていく。
4世紀前半:前橋天神山古墳、前橋八幡山古墳
4世紀後半:西部の高崎市浅間山古墳が、東部の太田市に宝泉茶臼山古墳(ほうせんちゃうすやまこふん)
5世紀初頭:藤岡市白石稲荷山古墳
5世紀前半:太田天神山古墳
6世紀後半:他の地域で大型古墳が建造されなくなるが、群馬では大型前方後円墳の数が減少にしなかった。

参考①:↓は太田天神山古墳。墳丘長さ210m、建造は5世紀前半-中期頃の間。

ja.wikipedia.org

参考②:↓は前橋市前橋市八幡山古墳。墳丘長130m、4世紀中頃

ja.wikipedia.org

■上野地域の3つの特殊性
1つめは上記などをふまえヤマト王権服従するというよりも、同盟者的な関係を維持していたのではとする白石太一郎氏の説がある。

2つめは、古墳時代の主な勢力としては畿内のほかに、毛野、尾張・美濃、吉備、出雲、筑紫、日向が挙げられる。うち墳丘長が200m以上の古墳が築かれたのは畿内、吉備、そして毛野のみとされる。

3つめは畿内の王墓に特有の「長持形石棺」の使用が見られる。
↓はwikipediaより、長持ち型石棺。長方形の木箱「長持ち」に似ていることからこのように名づけられている。古墳時代中期にみられる組合式石棺(くみあわせしきせっかん)の一種である。

ja.wikipedia.org

豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
第10代崇神天皇皇子、記紀に伝わる古代日本の皇族。古事記で「豊木入日子命」、日本書紀で「豊城入彦命」「豊城命」と表記される人物。上毛野氏や下毛野氏の始祖とされる。日本書紀崇神天皇48年において崇神天皇は豊城命と活目尊(いくめのみこと、後の垂仁天皇)に勅(みことのり)する。
次のようなエピソードがある(原文から意訳した)。ともに慈愛のある子でどちらを後継者とするかは決めがたい。そこでつぎのような夢による判断で決定する。兄の豊城命に対しては御諸山(みもろやま:三輪山)に登り、東に向かって槍(ほこ)や刀を振り回す夢を見たので東国を治めさせる。活目尊は御諸山にのぼり四方に縄を張って雀を追い払う夢を見たので位を継がせる。

■まとめ
・大室古墳群は群馬県前橋市東大室町・西大室町、赤城山の南麓に位置する。
・5世紀後半に豪族の館(梅木遺跡)、6世紀初頭~6世紀後半にかけて前方後円墳の前二子、中二子、後二子、小二子が建造された。
・上野地域は特殊な地域でヤマト王権とは服従よりも同盟の関係性に近い。
豊城入彦命は上毛野氏、下毛野氏の始祖とされる
記紀豊城入彦命という皇族にかかわる人物が東国を治めるために派遣されたエピソードがある

■感想
前記事「209.美豆良(ペイオト)を持つ髪型の埴輪と中国の史書での髪型の記述」のとおりで、群馬で美豆良の髪型をした人物埴輪が5世紀後半以降で多数みつかっている。カール型の新羅由来と思われる高貴な人物が被葬者となる古墳もみられる。これらとの関連性はいかに。

<参考>
・東国大豪族の威勢 大室古墳群(群馬) 前原豊
日本書紀(一)岩波文庫
前橋市 大室古墳群パンフレット https://www.city.maebashi.gunma.jp/material/files/group/94/oomuro.pdf
梅木遺跡 - Wikipedia
毛野 - Wikipedia
上毛野氏 - Wikipedia

下毛野氏 - Wikipedia