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233.古代の宮⑰~雄略天皇(六):任那の長官・田狭、百済の職人工の獲得~

今回はシリーズ第17弾、雄略天皇・6回目を紹介する。雄略の吉備との血縁を求める戦略、そして百済の職人工の獲得を紹介する。次の流れで紹介していく。
※雄略7年の出来事

吉備上道臣田狭を任那の長官とする
新羅に入る吉備上道臣田狭
・場をおさめる西漢才伎歓因知利と職人工を求める雄略
・弟君の百済入りと国つ神
田狭と弟君の約束
・国を思う樟媛(くすひめ)
・日鷹吉士堅磐固安錢の結果報告
・今来の才伎たち
・解説~血縁をめぐる日本の歴史~

吉備上道臣田狭を任那の長官とする
雄略は吉備上道臣田狭を任那の長官(正確には任那国司とし、朝鮮半島に赴任している間に、雄略が稚媛(わかひめ)を奪った。稚媛は吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)のむすめ。
雄略天皇(三)でも紹介。

新羅に入る吉備上道臣田狭
吉備上道臣田狭は新羅に入り助けを求める。
雄略は吉備上道臣田狭の子供の弟君(おときみ)、そして吉備海部直赤尾(きびのあまべのあかお)に命じる。
新羅に行って討て」と。

■場をおさめる西漢才伎歓因知利と職人工を求める雄略
その場に西漢才伎歓因知利(かわちのあやのてひとかんいんちり)がいた。
そして天皇に進言する。

「自分より巧みな者が多く韓国(からくに)にいます。召し使うべきです」

雄略は群臣(まえつきみたち)に対して言う。

「ならば歓因知利をもって、(田狭の子の)弟君に添え、百済に向かい、併せて勅書(みことのりふみ、「ちょくしょ」のこと)を与えるので、巧の者を献上しなさい」

■弟君の百済入りと国つ神
(田狭の子の)弟君(おときみ)は命令に従い、衆(もろもろ)を率い、百済に入る。

国神(くにつかみ)が老女に化ける。そして弟君と道で出会う。
弟君は行きたい国が遠いのか、近いのかを尋ねた。
すると老女は次のように答えた。

「また1日行くと、のちに到着します」

弟君は自ら道が遠いと思い、新羅を討たずして帰った。
百済が奉った(たてまつった)今来の才伎(いまきのてひと、職人工)を大嶋(※)に集わせる。そして様子見を行った。月日がたった。

■田狭と弟君の約束
任那国司(みまなのくにみこともち)の田狭臣は弟君が新羅を討たないで帰ることを喜んだ。
密かに人を百済に送り、弟君を戒めてこう言った。
「なんじの首が安泰だから、人を討つというのか。伝え聞くところによれば、雄略はわたしの妻を妃とし、ついには子供を持ったと聞く。

今、恐ろしいのは禍(わざわいが)身におよぶこと。素早く対処できるように待つべきだ。
わが子の汝は百済にとどまり日本に行くな。
一方、われは任那に行き、日本には通わない。

※吉備という倭国の出身でありながら事情から海外・任那百済に留まらざるをえなかった当時の事情が描かれているとされる

■国を思う樟媛(くすひめ)
弟君(おときみ)の妻の樟媛は国家に対する愛情が深かった。
君と臣の義(ことわり)がたしかであった。
忠心の度合いは白日(てるひ)を超え、節度は青松(とこまつ)のようであった。
この謀叛(みかどかたぶけむとすること、むほん)を憎んだ。
そして密かに弟君を殺し、室(ねや)の中(うち)に隠して埋めた。
そして海部直赤尾(あまのあたいあかお)とともに、百済が献上した職人たち、今来才伎(いまきのてひと)を率いて大嶋に滞留した。

■日鷹吉士堅磐固安錢の結果報告
雄略は弟君がいなくなったことを聞く。
そこで日鷹吉士堅磐固安錢(ひたかのきちしかたしはこあんぜん)を遣わし、復命(事の結果)を報告させる。
そして倭国の吾礪(あと)の広津廣津邑(ひろきつのむら)に安置される。

広津廣津邑は和名抄にて河内国渋川郡跡部郷とされる。現在の大阪府八尾市植松町付近ではないかとされる。

■今来の才伎たち
病気になって死ぬものが多かった。
それで天皇は大伴大連室屋(おおとものおおむらじむろや)に勅して東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)に命じ、上桃原(かみつももはら)、下桃原(しもつももはら)、真神原(まかみのはら)の3か所に住まわせた。
次のような職人工たち。
・新漢陶部高貴(いまきのあやのすえつくりこうくい:須恵器づくり)
・鞍部堅貴(くらつくりけんくい:馬具を製作)
・画部因斯羅我(えかきいんしらが:画工集団)
・錦部定安那錦(にしごりじょうあんなこむ:高級織物を大陸系の技術で織る工人)
・訳語卯安那(おさめうあんな:通訳など)

日本書紀いわく。ある本では吉備臣弟君は百済より帰り、漢手人部(あやのてひとべ)、衣縫(きぬぬいべ)、宍人部(ししひとべ)を奉ったとされる。
関連:過去記事にて飛鳥寺を建設する際に6世紀後半、百済からやって来た人々を紹介↓

shinnihon.hatenablog.com

■解説~血縁をめぐる日本の歴史~
方形周溝墓や四隅突出型古墳などを築き、九州より先に発展していた出雲、吉備、越、播磨。ヤマトタケルの東征を受け、日本の中心地は奈良へと変わる。

中国の動乱および朝鮮半島三国時代を受け、日本に渡来人が多くやってきて帰化してく。つまり、縄文人と渡来人の血縁のハイブリッドである弥生人たちが主流を占めていく。その過渡期が雄略期。
雄略期において吉備系の血を獲得し、かつ、渡来人のテクノクラートの獲得にどん欲となことがわかる。

弥生人に押される縄文人であるが、雄略、武烈を経て、誉田(応神)の血族、日本史の傍流であった稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)の系統が継体天皇の時代において現在の皇室まで血統をつないでいく。

血液型占いに敏感なのは、日本人の歴史を表しているのだろうか。

<参考>
日本書紀(三)岩波文庫
吉備上道弟君 - Wikipedia
吉備海部赤尾 - Wikipedia