シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

245.古代の宮㉙~雄略天皇(十八):雄略の崩御、大伴室屋大連と東漢掬直への遺言~

今回はシリーズ第29弾、雄略天皇・18回目(雄略紀の最終回)を紹介する。雄略が病に伏し崩御する。雄略の遺言や皇太子(清寧天皇)が継ぐことの正当性が星川皇子との対比を通じて描かれる次の流れで紹介していく。
・病気から賞罰支度を皇太子に委ねる
雄略天皇崩御
・雄略の大伴室屋大連と東漢掬直への遺言
・臣下に対して思うこと
雄略の心残り
天皇の職責と後継者に対して
・皇太子と星川皇子
・吉備臣尾代と蝦夷の戦い

■病気から職務を皇太子に委ねる
即位23年7月(秋)。
天皇は寝疾不預(みやまい、病気により寝ているさま)していた。
(みことのり)し、賞罰支度(まつりごとおきて)など大小問わず皇太子に付にたまふ(ゆだにたまふ、委ねた)。

雄略天皇崩御
即位23年8月。
天皇は疾弥甚し(おおみやまいいよいよおもし、病気で容態が重い状況)。
百寮(つかさつかさ、役人)と別れ、手を握って嘆いた。
大殿(おおとの)で崩り(かむあがり、崩御)した。

■雄略の大伴室屋大連と東漢掬直への遺言
大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)と東漢掬直(やまとのあやのつかのあたい)とに遺言として詔した。

「まさに今、区宇(あめのした)は一家(ひとついえ)となり、煙火万里し(けぶりとおし、家でおこした火が万里からも見える)

百姓(おおみたから)は治まりやすく、四の夷(よものひな、四方の異民族)は詣でて従う。

天意(あまつみこころ)に従い区夏(くにのうち、国内※)をやすらかにしたいと欲している。
※区夏の夏は華夏を表し、ここでは日本国内の意味。

反省し、己を励まし、日に一日(ひにひにひとひ)を慎むことは百姓のためである。

臣、連、伴造(おみ、むらじ、とものみやつこ)は毎日(ひにひに)朝参り(みかどまいり)し、国司(くにのみこともち)、郡司(こおりのみやつこ)もときに従って朝に参集する。

※臣・連・伴造は中央、国司・郡司は地方の官人。官人制度が整ってからの風景を描いている。国司の下に郡司が置かれたのは大化改新の詔で整備が整うまでに半年ほどを要したとされる。郡司ではなく県主(あがたぬし)ともされるが、日本書紀当時に作成した文と考えられている。

心府(こころぎも)を尽くし、誡勅(いましむるみこと、戒めの勅)に対して慇懃(ねんごろ、礼儀正しい)である。

■臣下に対して思うこと
義(ことわり)においては君臣(きみやつこ、君主と臣下)であるが、情(こころ)においては父子(かぞこ)を兼ねている。

願わくは臣連(おみむらじ)の智力(さとりちから)によって内外の心を歓ばせ、普天(あめ)の下をして長く安楽(やすらかにたのしきこと)を保たせたいと思う。

しかし、思いがけず、病がひどくなり、大漸(とこつくに※)に至る。

大漸:天子の危篤状態を示す。死者の国に至ることを示す。

これは人生(ひとのよ)の常のことわりである。

雄略の心残り
朝野(みやこひな)の衣冠(みそつものかうぶり)を鮮麗(あざやか)にすることができなかったのは残念だ。
また教化政刑(おもぶくることまつりごとのり)はまだ善きことを尽くしていない。
このことを思えば、まだ残念な気持ちが残っている。

天皇の職責と後継者に対して
しかし今、年を若干を越えた。
命が短かったとは言えないだろう。
参考:年を越えたとは8月の出来事のため誕生日のこと。また雄略の生没年は418年~479年。

筋力(すじちから)、精神(こころたましい)は一時(もろとき)からは力尽きてしまった。
天皇のような仕事は自分自身のためにあるのではない。
ただ百姓を休め、養おうするためだ。
そのため、天皇の職務を果たしてきた。

人生子孫(うみのこ)に念(おもうこころ)を引き継いで欲しい。
天下(あめのした)のためには事(こと)、情(こころ)をつくすべきだ。
天下のために仕事も心も割り振って尽くすべきだ。

今、星川王(ほしかわのみこ)は心にさかしまに悪(あしきこと)を抱いている。行動は友于(このかみおとひと、兄弟が仲がよいこと)に欠けている。

古(いにしえ)の人は言う。
「臣(やつこ)を知るには、君主を知ればよい。
子を知るには、父を知ればよい。」

■皇太子と星川皇子
もし仮に星川が志(こころ)を得て、国家を治めれば、間違いなく戮恥(はじ、殺戮される)となり、臣連(おみむらじ)だけに限らず民庶(おおみたから)も影響を受けることになるだろう。
悪しき子孫は百姓(おおみたから)からはばかられる。
良い子孫は大業(おおきなるつぎ)を背負い、耐えることになるだろう。
これは朕が家(わがや)のことであるが、理(ことわり)として隠すべきものではない。

大連(おおむらじ)たちは民部(かきべ、領有する区画)も広く大きく、国に満ちている。

皇太子(ひつぎのみこ、清寧天皇は儲君上嗣(まおうけのきみ※)であり、仁孝(ひとをめぐみおやにしたがうみち)があらわれ聞こえている。
※儲君上嗣:儲嗣(ちょし)、または皇嗣(こうし)は、いずれも皇位継承順第一位の者

その行業(しわざ)を思えば、朕が志(わがこころ)を成すには耐えられるであろう。

これをもってともに天下(あめのした)を治めれば、朕が瞑目ぬ(しぬ、目を瞑る)といえども、恨むようなことがあるだろうか」とのたまった。

ある本(ふみ)にいわく。
「星川王(ほしかわのみこ)は腹あしく、心が荒いと天下に聞こえていた。不幸にして朕が崩御した後、皇太子を害(やぶ)ろうとするだろう。
なんじらは民部(かきべ)も多く、努力して助け合ってほしい。
侮ってはいけない。」

■吉備臣尾代と蝦夷の戦い
このとき、征新羅将軍・吉備臣尾代(しらきをうついくさのきみ・きびのおみおしろ)は吉備国に到着、そして家に立ち寄った。

500人の蝦夷(えみし)らは天皇崩御を聞き、語って言った。
「我が国を領(す)べ制(おさ)めていた天皇はすでに崩御した。この時を失ってはいけない」
集まって、傍(ほとり)の郡(こおり)に侵攻した。

尾代(おしろ)は家から来た。
蝦夷と娑婆水門(さばのみなと※)で会った。
そして合戦し、弓を射た。

蝦夷たちはあるいは踊り、あるいは伏した。
※娑婆水門:備後国沼隈郡佐波村・山波村、現・広島県福山市佐波町

矢を避け続けた。
ついに射ることができなかった。
尾代は空のままで弓の弦を弾きました。

海浜(うみへた)の上で、踊り伏した者、二隊を射殺した。
2やなぐい(ふたやなぐい、矢を差し入れて背に負う武具)分の矢が既に尽きた。

船人(ふなびと)を呼んで、矢を探させた。
船人は恐れて自ら退いた。
尾代は弓を立てて、末(ゆみはず、弓の端)をとらえ、歌(うたよみ)をした。

道に闘(あ)ふや
尾代の子(おしろのこ)
母(あも)にこそ
聞えずあらめ
国には
聞(きこ)えてな

歌の意:
(この我が名は)母には聞こえないだろう
しかし我が故国の人には聞こえてほしい

歌い終わると、自ら数(あまた)の人を斬った。
また追って、丹波国(たにはのくに)の浦掛水門(うらかけのみなと)に到着してことごとく攻め殺しました。
※浦掛水門:浦掛は京都府熊野郡久美浜町浦明、水門は久美浜湾とされる

ある本いわく。
追って浦掛に到着したのちに人を遣し、全員を殺せたという。

<参考>
日本書紀(三)岩波文庫
星川皇子の乱 - Wikipedia