シン・ニホンシ

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142.古代中国との遣使の歴史:57年、107年、266年の遣使タイミングの意味とは?

古代の中国と日本はどのような関係があったのだろうか。記録に残る遣使の始まりから古事記の完成する頃まで、つまり弥生時代飛鳥時代初期までの遣使を取り上げる。これより、古代日本の王権の状況、中国やそれにからんだ朝鮮半島との関係の手がかりとしたい。あわせて 57年、107年、266年の遣使の意味をそのタイミングから推測していく。やや記録中心となるが、解説を加え、より大きな推理(わたくしに限らず)への利用を可能とする。

卑弥呼以前
   57年:倭の奴国王が後漢朝貢し、光武帝から金印を授かる
 107年:倭の国王、師升(すいしょう)が後漢朝貢、生口160人を献上する

奴国(なこく、なのくに)は1世紀から3世紀前半にかけて魏志倭人伝などに現れる倭国の国のひとつ。卑弥呼邪馬台国とは異なる。この「57年」には何が起こったのだろうか。実は新羅において「脫解尼師今(だっかいにしきん)」が王になったときである。このタイミング倭が後漢に遣使していた。朝鮮半島の南部では、西暦42年に首露王(スロワン)が駕洛国金官伽耶)を起し、朝鮮半島の南部にあった金官伽耶をはじめとする6つの小国の伽耶連盟が形成されていた。このため57年への中国への遣使の意味は、倭の奴国の王が後漢に対して新羅の建国に関する何らかの地位の確立を求めた可能性が高い。
 次に107年の師升(すいしょう)について。師升とは連合国の首長の称号とみられる。またこの遣使タイミングは後漢における皇帝が6代目の「安帝」へと106年に変わったばかり。ちなみに後漢の4代目は和帝で17年続いたのち、5代目は殤帝で2年弱。朝貢の規模も生口を160人と、海上を移動したり、陸に到着して同行するだけでも大集団となっただろう。

卑弥呼・台与:北部九州の邪馬台国
 239年:邪馬台国の女王、卑弥呼が魏に遣使。明帝より金印と銅鏡100枚を授かる
 243年:卑弥呼が魏に遣使、生ロ、倭錦を献上する
 245年:魏の少帝が倭の大夫(たいふ)に黄幢(こうどう)を授け、帯方郡を通じて授けるよう手配する
 247年:卑弥呼が魏に遣使、狗奴国との交戦を伝える
 266年:倭の邪馬台国の女王・台与が西晋の都、洛陽に朝貢

 250年前後に卑弥呼が死去し、その後宗女の台与が13歳で女王に即位する。266年には西晋朝貢をする。この266年とは西晋の祖となる武帝司馬炎とも:在位265年-290年)が即位したのちのタイミング。
■空白の4世紀
266年以降は空白の4世紀となり中・韓との関係性が不明になる。なお通説ではないが日本では3世紀の終わり頃から4世紀の初めにかけて日本武尊が東征を行ったとされ大和朝廷の基礎が築かれていく。また、帯方郡は204年~313年まで存在し百済へ、楽浪郡は紀元前108年から西暦313年まで存在し高句麗へ組み込まれていくため朝鮮半島での動きが活発であったであろう。また3世紀中頃~後半頃、 箸墓古墳奈良県桜井市において建造される。全長は約280mと巨大な建築物のため、渡来人の関与は確実視される。

倭国の五王とは
その後「倭国の五王」となって遣使の記録が復活する。「宋書倭国伝に記された讃、珍、済、興、武を「倭の五王」と言う。「日本書紀」のどの天皇にあたるかが議論されている。有力説は次のとおり。
・讃:応神、仁徳、履中のいずれか
・珍:反正、仁徳のいずれか
・済:允恭
・興:安康
・武:雄略

倭国の五王の時代の遣使の記録
 413年:倭王・讃が東晋の安帝へ朝貢し入貢する

 421年:倭王・讃が宋へ遣使、武帝より「除授」を賜る
 この除授はその後の倭王の例より「安東将軍・倭国王」の可能性が高いとされる

 425年:倭王・讃が司馬曹達を遣使、宋の文帝より入貢する

 430年:倭王・(不明)が宋へ朝貢し入貢する

 438年:倭王・珍が宋へ遣使
 珍は賛の弟とされる。またこのとき「使持節都督倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称して正式な任命を求めたが、賜ったのは「安東将軍倭国王」。倭国および百済の王権、軍事支配を求めが、宋側が許可したのは倭国のみであった。さらに倭隋ら13人を平西、征虜、冠軍、輔国将軍とすることを要求し、許可された。

 443年:倭王・済が宋へ朝貢、文帝より「安東将軍倭国王」とされる

 451年:宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はそのままであった。7月に「安東大将軍」に進号、宋に上った23人も宋朝から将軍号・郡太守号を与えられる。

460年:(不明)が孝武帝朝貢する

462年:倭王・興が宋へ遣使
遣使より前に「済」が没しており世子の興が遣使を行った。3月、宋の孝武帝が興を「安東将軍倭国王」とした。

477年:倭王・武(?)が宋へ朝貢
遣使より前、興が没しており、弟の武が遣使を行った。武は自ら「使持節都督倭・百済新羅任那加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称した。

478年:倭王・武が中国の宋へ朝貢
上表し、自ら「開府儀同三司」と称して叙正を求めた。順帝は武を「使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とした。

479年:倭王・武が中国の南斉へ遣使
南斉の高帝は王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号した

502年:倭王・武が中国の梁へ遣使
梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。

宋書」列伝の中で、倭王武の上表文において、済が高句麗を討とうとしたが、その直前に亡くなったと記述があるとされる。

なお、百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)が4世紀後半から5世紀後半に築造される。近接エリアではあるが、百舌鳥、古市とは勢力が異なるのだろうか。
538年には百済から公式的に仏教が伝来する。その前にも非公式では仏教が伝わっていた。任那なども関連すると思われる。つまり日本は朝鮮半島百済との関係性をより深めていた時期となる。下記に高句麗百済、倭における将軍号の変遷が掲載されている。

済 - Wikipedia

奈良時代あたり
この時代は隋や唐に対しての遣使となる
607年:倭国小野妹子を隋に遣使
608年:小野妹子が裴世清を伴って帰国、そして再び遣使として隋へ
614年:倭国犬上御田鍬を隋に遣使
630年:倭国犬上御田鍬を唐に遣使

■まとめ
遣使のタイミングは大きく4つある。
1つめ:新羅建国時の、おそらく支配や地位などの承認。これが朝鮮半島南部の任那地域支配に影響したかもしれない。

2つめ:中国側王朝の交代によって倭側から朝貢するタイミング。中国側の支配者としても倭からの朝貢、つまり王朝の承認はありがたいものと考えられる。

3つめ:倭の五王以降の時期では朝鮮において各国が乱立している状況で朝鮮支配の地位を認めてもらう意味があったと考えられる。

4つめ:奈良時代以降における隋や唐の文化や技術の吸収。百済高句麗の亡命者受け入れた後は、文化や技術の発展のため、遣使が必要であった。
<参考>
日中関係史 〜年表〜
奴国 - Wikipedia
古墳時代の年表 - 歴史まとめ.net
倭の五王|日本大百科全書・世界大百科事典|ジャパンナレッジ
倭の五王 - Wikipedia
加羅/加耶
帯方郡