今回は宇土市の粟島神社、そしてスクナビコナを取り上げる。スクナビコナとはどのような人物であっただろうか。次の流れで紹介していく。
・粟嶋神社(あわしまじんじゃ)
・粟嶋神社の由緒と創建
・スクナビコナとは
・オオアナムヂとスクナビコナ
・播磨国風土記とスクナビコナ
・記紀とスクナビコナ
・スクナビコナと伊予国風土記(逸文)
・まとめ
■粟嶋神社(あわしまじんじゃ)
所在は熊本県宇土市新開町。
境内に日本一小さな鳥居が三基ある。
縦、横30cm、石造りの鳥居である。
この鳥居は1814年、重い病に苦しまれた方が奉納したもの。
当時、医薬の祖神として霊験あらたかな「粟嶋大明神」の神徳にすがり、この粟嶋神社で祈祷を受け信仰したところ、病が完治した。
病気平癒に対するのお礼と感謝として鳥居を奉納したとされている。
↓はgooglemap、熊本県宇土市の粟嶋神社
■粟嶋神社の由緒と創建
さきほどは鳥居の由来を紹介したが、神社のほうの由来はどうか。
宇土市の粟嶋神社の創建は1633年とされる。
この地に老夫婦の次衛門とその妻が住んでいた。
1633年、2月3日のこと。
粗末な身なりの旅の僧がこの老父夫婦のもとを訪れ、一夜の宿を乞われた。
老夫婦はこれを快く引き受け、おもてなしをする。
するとその夜、寝ている老妻の夢枕に一人の神様が現れた。
「我は粟嶋の神なるぞ、信心深き汝等に幸を授けん」
と告げたとされる。
翌朝、僧は、貧しい旅の者であるにもかかわらず、おもてなしを受けことに感謝を言い残し、旅立った。
老夫婦は僧侶を泊めた布団の枕元に、一体の御神像が置かれていたことに気づく。
驚いた老夫婦は僧侶の後を追いかけた。
しかし僧侶の姿は見あたらなかった。
老妻は昨夜の夢のお告げを思い出した。
そして二人は少彦名命(すくなひこなのみこと:粟嶋大明神)に違いないと思った。
そこで、小さな祠をたて、御神像を安置、熱心に信仰したとされる。
↓は粟嶋神社、由緒のページ
■スクナビコナとは何か
少彦名(スクナビコナ)は粟嶋大明神とも。
少彦名は出雲大社の大国主命(おおくにぬしのみこと)とともに国造りで活躍したとされる。
スクナビコナは
・医薬
・温泉
・禁厭(まじない)
・穀物
・知識
・酒造
・石の神など多様な性質を持つとされる。
秦氏、蘇我氏、物部氏、忌部氏といった一族が持っていた役割、知識、技術と近い、というよりすべてが包括されて残っている。当時の現世利益的なものがそれらにあったとも言える。
■オオアナムヂとスクナビコナ
この「スクナビコナ」という名前について。
大国主の別名が「大穴牟遅(オオアナムヂ)」とされ、この対比によってスクナビコナとされる。
古事記、日本書紀の異伝、新撰姓氏録などによれば、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、または日本書紀の記す別の一書では七世の孫とされる。
スサノオは紀元前700年代の人物で日本人。アマテラスの2つ下の弟とされる。
一方、大国主命は実在の人物。ヤマトタケルのに対して国譲りし、東征を手伝った。
なおヤマトタケル、大国主命とも日本人。
西暦300年前後の人物。
このため、須佐之男命の六~七世の孫というのは、一世代25年~30年として、150年前~210年前頃にあたり乖離がみられる。
大国主の別名、大穴牟遅(オオアナムヂ)に関して天照(アマテラス)の別名が天照大日孁尊(あまてらすおおひるめのみこと)やオオヒルメノムチである。
また大国主はスサノオの子孫とされている。アマテラスの別名と言葉の類似点もみられ、尊い、信仰心のある、当時、力を尽くした人物ということだろうか。
↓は大国主命を紹介した回
■播磨国風土記とスクナビコナ
播磨国風土記では少名毘古那神と記されている。
神前の郡(かむさきのこおり)の条にて、
・小比古尼命(すくなひこねのみこと)が大汝命(おおむなちのみこと)の争い
・埴岡里(はにおかのさと)の地名の由来
・波自賀(はじか)の地名の由来
が示されている。
スクナビコナは古墳建造にも携わっていたと考えられる。
なお、小比古尼命(すくなひこねのみこと)が大汝命(おおむなちのみこと)が争いについては下記が詳しい。
兵庫県立歴史博物館、ひょうご伝説紀行 埴の里とはじか野村、PDF
https://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/wp-content/uploads/2021/02/legend2_004.pdf
■記紀とスクナビコナ
古事記ではスクナビコナは少名毘古那神と記される。
そして神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされている。
一方の日本書紀では少彦名命、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。
神産巣日神、高皇産霊神は天之御中主(実在の人物)から続く、高千穂峰の王国の歴代王にあたる。
「スクナビコナ」とは何か。
古い時代より日本に渡来し、日本の国づくりをサポートしていた人物ということだろうか。
古事記では大国主神との関係の中で「少名毘古那神との国作り」が記される。
次のエピソードが示されている。
オオクニヌシが出雲の美保岬(みほのみさき)にいたとき。
天乃羅摩船(アメノカガミノフネ※)に乗り、小鳥のミソサザイの羽毛を着物にして波の彼方から来訪してくる神があった。
※ガガイモの実。ガガイモの殻は舟に似ている
オオクニヌシはお供の者たちにその神の名前を尋ねる。
しかし、誰も知らないという。
ヒキガエルが言う。
「カカシのクエビコ」なら知っているのではと。
するとクエビコが
「神産巣日神の御子の少名毘古那神(スクナビコナのかみ)です」と答える。
オオクニヌシは国づくりに関して思案していたときのこと。
「自分一人でどのようにしてこの国づくりをしようか。
どのような神と組んで国づくりをしたらよいだろうか」。
そのとき、近づいて来る神がいた。
それは三輪山(みわやま、古事記では三諸山・みもろやま)の上に鎮座する神であった。
三輪山は奈良県桜井市にある山。
こうしてオオクニヌシとスクナビコナは義兄弟の関係となりともに国作りをしたと考えられる。
文献史学上は、先にスサノオの子孫のオオクニヌシと渡来人と推定されるスクナビコナが奈良県桜井市あたりまでの国づくりをする根拠までが示されている。
その後は類推するしかない。
ヤマトタケルが東征、オオクニヌシが国譲り(出雲~近畿あたりまでを指すだろうか)し、その後はオオクニヌシたちのサポートを得ながら東海、関東方面に東征していった。
伊予国風土記では宿那毘古那命(スクナヒコナノミコト)として記されている。
湯の郡(伊予の湯、道後温泉)にて。
大穴持命(オオアナモチノミコト)が後悔し、スクナヒコナノミコトを蘇生させたいと思う。
そして大分の速見の温泉(別府温泉)を地下に埋設した管によって(道後温泉まで)持ってきて、スクナビコナに浴びせた。
するとスクナビコナが生き返った。
温泉開発や温泉が病を癒す力があることを伝えているのであろうか。
または菅(スガ)に特別な意味があるのだろうか。
少なくとも、オオアナモチとスクナヒコナは一戦交えており、オオアナモチが勝ったようだ。荒磯谷遺跡の銅剣の出土状況からしても、少なくとも出雲の王(大国主)は武器を多数持っていたことがわかる。
・オオアナモチとスクナヒコナが戦い、オオアナモチが勝った
・オオクニヌシはスクナビコナを従えている
・オオクニヌシはと三輪山の神からの神託を受け、三輪山の国づくりの根拠が示されている
・スクナビコナはオオクニヌシと登場することが多い。その人は古くは出雲に使えた人びとだろうか。
・スクナビコナは後世では古墳時代の波氏秦、蘇我氏、物部氏の要な役割や技術を総合した人物像となっている
■豆知識
・熊本の粟嶋神社は熊本県宇土市新開町は同じく宇土市の「住吉町」と距離的に近い。また、スクナビコナ、住吉、エビスなどは船や技術と関連する名前や地名となっている。
・粟嶋神社の創建とされる「1633年」は鎖国令の第一弾として奉書船以外の海外渡航が禁止されたときである。
別途、住吉、エビスの歴史のナゾをひも解いていきたい。
<参考>
・新版 古事記 現代語訳付き 中村啓信訳注 角川ソフィア文庫
・風土記 上 現代語訳付き 中村啓信監修・訳注 角川ソフィア文庫
・風土記 下 現代語訳付き 中村啓信監修・訳注 角川ソフィア文庫
・スクナビコナ - Wikipedia
・大国主 - Wikipedia
・三輪山 - Wikipedia
・日本のユダヤ人 - Wikipedia