古代、任那の人びとの一部は日本に渡来したのではないだろうか。実際、百済の人はヤマト王権に近い、例えば大阪府枚方市(百済寺があったという)、新羅の人びとは王権から離された埼玉県の新座付近、そして高句麗の人びとは埼玉県日高市・高麗に住まわせたという。それならば、任那の人びとも一部は日本に渡来したのではないだろうか。今回、その候補地につき、高知の室戸や和歌山の牟婁をあげる。次の流れで紹介していく。
・任那4県割譲
・大加羅の滅亡
・新羅の昌寧碑(しょうねいひ)
・西暦535年~西暦536年の世界規模の火山爆発
・中原高句麗碑における牟婁
・高句麗王に仕えた牟頭婁(むとうる)
・高知県の室戸(ムロト)
・和歌山の牟婁郡
・補陀落渡海(ふだらくとかい)
・補陀落はサンスクリット語が語源
・星信仰と高知と栃木の関係
・任那の牟婁に住んでいた人びとに関する推測
■任那4県割譲
日本書紀では継体天皇(在位:507年~531年)の治世とされる時代において512年、大連(おおむらじ)の大伴金村は百済からの要請を受け、任那の4県を割譲した。
その4県とは
・上哆唎(オコシタリ)
・下哆唎(アロシタリ)
・娑陀(サダ)
・牟婁(ムロ)
の4県とされる。
↓は任那復興会議について紹介した回
このうち「牟婁(ムロ)」にまつわる話を取り上げる。
古代の朝鮮半島情勢における任那関連の知識とともに紹介していく。
■大加羅の滅亡
任那は広開土王碑において文字として初出(正確には欠字部分がその状況から任那と推定されている)とされる。
そして562年に大加羅の滅亡によって倭人は朝鮮半島での拠点を失ったとされる。
なお、倭の五王の遣使は413年頃に始まり、502年頃に終わる。
任那4県割譲はこの10年後にあたる。
なお、伽耶連盟の構成国は次の通り。
①金官国・大加羅:伴跛。「魏志倭人伝」の狗邪(くや)韓国。製鉄。
②安羅加羅:慶尚南道咸安郡
③古寧加羅:慶尚北道尚州市咸昌
④星山加羅:慶尚北道星州郡
⑤小加羅:慶尚南道固城郡
⑥それ以外の小国:多羅(慶尚南道陜川郡)、卓淳(慶尚南道昌原市)、己汶(全羅北道南原市)、滞沙
↓で伽耶連盟の構成国などを取り上げた
大加羅などは本当に存在していたのか。
考古学的に昌寧碑などによって存在が確認されている。
■新羅の昌寧碑(しょうねいひ)
所在は大韓民国・慶尚南道昌寧郡。
新羅が562年、第24代・真興王(在位:540年~576年)23年のときに大伽耶討伐に先立ってその前年に臣下と会盟した記念の碑であるという。
続いて、この562年頃に時代が重なる百済の情勢について。
■百済で官僚になった倭人たち
倭人たちが百済において官僚となって活躍していた時期がある。
その時期は540年代~580年代の間である。
物部系、斯那奴(しなの)系、許勢系、河内系、紀弥麻沙(きのみまさ)らがいる。
星の信仰を考慮すれば、吉備は高句麗とも関係があったと考えられる。
そしてそれは高知とも関係がある。
さらには562年の大伽耶滅亡時の百済の官僚に紀弥麻沙(きのみまさ)がいる。
6世紀中頃の倭系百済人で官位は奈率。
紀臣(紀氏)が韓婦を娶って生まれた子。
百済に留まり、のち奈率となったとされる。
安羅の日本府と新羅が計を通じたと聞いた百済は、弥麻沙を前部奈率鼻利莫古、奈率宣文、中部奈率木刕眯淳らとともに安羅へ遣わされたという。
なぜ仏教が日本に伝わったのか。
百済から日本に仏教が伝来してと思われる直接的な原因は以下と考えられる。
■西暦535年~西暦536年の世界規模の火山爆発
西暦535年または536年にクラカタウが、西暦536年にエルサルバドルで大規模な火山爆発がおきたとされる。
これにより、世界中で気候変動がおき、ペストが大流行したという。
特にローマ帝国では5000万人規模の死者が出たという。
当時の古代朝鮮でも人口の7~8割が死亡したと推測されている。
このことが538年の百済からの仏教公式伝来に影響していると推定される。
なお、公式ではない、民間のあいだの伝来としてはもう少し早かったようだ。
↓はクラカタウ、エルサルバドルでの火山の大噴火について取り上げた回
そして、「牟婁」について。
まず、この「牟婁」という単語が高句麗の中原高句麗碑にみられる。
■中原高句麗碑における牟婁
中原高句麗碑は忠州高句麗碑とも。
5世紀前半の石碑であるという。
大きさは高さ2.03m、幅0.55m。厚さは0.33m。
高句麗の長寿王が(高句麗の代20代王、生没年:394年~491年、在位:413年~491年)が南下し、各地の城を攻略、開拓していく中で建てた記念碑ではないかと推定されている。
この石碑の、左側部分に
「伐城□□□古牟婁城守事下部大兄耶□」の「牟婁城」の文字が存在する。
任那の牟婁と関係があったのかは定かではないものの、少なくとも当時の「柵」で囲うような人の集まる地域が朝鮮にあったことがわかる。
↓中原高句麗碑を取り上げた回
この「牟」や「婁」は特徴的な字である。
おなじく、高句麗において、高句麗王に仕えた人物に「牟頭婁」がおり、この人物名に「牟」「婁」が入る。
「牟婁城」と「牟頭婁」は同じ高句麗のこともでもあり、なんらかつながりがあるかもしれない。
■高句麗王に仕えた牟頭婁(むとうる)
牟頭婁塚は現在の中国吉林省、かつての高句麗の好太王碑のある集安平野にあり、十数基の小土墳のうちのひとつ。
この前室の正面の上壁に、経巻を展開したかのような部分がある。
そして漆喰の壁面を渋色に塗って、そして罫線が引かれている。
そこに牟頭婁の墓誌が墨書きで記されているという。
牟頭婁の墓誌の墓誌は好太王の死去、まもなく作成されたと考えられ、5世紀前半とされる。
牟頭婁と牟婁を結び付けることは早急な話ではあるが、まずは同じ漢字としての当て字がみられる(音写の一部)ことを示した。
↓は牟頭婁塚墓誌(むとうるづかぼし)と牟頭婁について取り上げた回
そしてこの「牟」と「婁」を持つ地名がある。
高知県、和歌山の近接エリアで紹介していく。
■高知県の室戸(ムロト)
高知県の東南部に位置する市である。
弘法大師が悟りを開いたとされる御厨人窟(みくろど)がある。
これに地名が由来するという。
まず室戸市と和歌山は地理的に海洋ルートでつながっている。
「土佐日記」の「紀貫之」の帰路のルートでは、奈半利である奈半泊(なはのとまり)、室戸(室津・むろつ)などが登場する。
近畿への海洋ルートが存在し、室戸は航路上のルートの一部であった。
■和歌山の牟婁郡
和歌山に牟婁郡がある。
こちらにも「牟婁」の漢字が今も残る。
ヤマト王権と近いのは和歌山であるから、こちらのほうがまず受け入れやすいだろう。
牟婁郡の名の初出は孝徳天皇の在位中(645年~654年)であるという。
当初は紀伊国(紀伊国造)牟婁郡とされ、紀伊国の最南端、南は熊野国と接していたという。
よって、少なくとも645年以前に牟婁郡が存在していたことがわかる。
高知県の室戸と和歌山の牟婁郡のつながりは単に「ムロ」だけではない。
「補陀落渡海」にも似た風習が残る。
これらは同じ民族が渡来していたことを示すのではないか。
■補陀落渡海(ふだらくとかい)
補陀落渡海とは、観音菩薩の浄土である補陀落山への往生を願って海上へむけて船出する行為。
補陀落山は南にあると考えられた。
中世の熊野、土佐から出発した例が多いという。
最古の事例は868年(貞観10年)、紀伊国(和歌山県)熊野であるという。
ほか、高知県足摺岬、室戸岬などの例がある。
日本では那智山、日光山(二荒山)、室戸岬、足摺岬などが補陀落に擬され、観音信仰の霊場となったという。
補陀落渡海のピークは16世紀。
57件のうち27件が16世紀の発生という。
■補陀落はサンスクリット語が語源
「補陀落」はサンスクリット語の「観音菩薩」が住むという「ポータラカ」に由来するとされる。
関連して、栃木の日光東照宮などの「日光」について。
「日光」は「ポータラカ」が「補陀落(ふだらく)」となり、ふだらくが「二荒(ふたあら)」となって、二荒が「日光」となったと考える説がある。
よって、栃木にも補陀落によるつながりが高知、和歌山とみられる。
■星信仰と高知と栃木の関係
星にまつわり、高句麗と七星剣の関連がみられた。
星神社は高知に多く、星宮神社は栃木に多かった。
ポータラカつながりでは、高知、和歌山、栃木などが関連する。
↓は七星剣と妙見信仰について取り上げた回
大加羅の滅亡は562年。
和歌山の「牟婁郡」の初出が孝徳天皇の在位中(645年~654年)。
そして運命の決戦、白村江の戦いは663年(天智天皇2年)である。
また、補陀落山は南にあると考えられた。
・ムロ
・海洋ルートでの地理的近接性
・補陀落渡海
がある。
また、
・高知の星神社の多さ
・栃木の星宮神社の多さ
は星に関する信仰を通したつながあり、高知と和歌山の関係同様、補陀落、つまりポータラカに対する信仰があったのではないかとみられる。
おそらく、歴史的には高句麗から任那に南下、これが任那の牟婁郡となり、やがて日本に渡来、高知や和歌山、そして関東にも渡ったのだろう。
栃木には日光のほか、大谷磨崖仏なども存在する。
年表としては、
・西暦535年~西暦536年の世界規模の火山爆発
・538年:日本への仏教の公式伝来
・540年代~580年代:百済での倭人官僚の活躍
・562年:新羅の昌寧碑
・562年:大加羅の滅亡
・645年~654年:和歌山の牟婁郡の初出、孝徳天皇の在位中
・815年頃:空海が四国を行脚
・868年:補陀落渡海の最古の事例、紀伊国(和歌山県)の熊野
・935年:紀貫之が土佐日記を著す
となる。
<参考>
・昌寧郡 - Wikipedia
・任那 - Wikipedia
・室戸市 - Wikipedia
・牟婁郡 - Wikipedia