シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

392.日本書紀の中のトゥルク系遊牧民・突厥

日本書紀の中に突厥について。次の流れで紹介していく。

突厥(とっけつ、とっくつ)
日本書紀の中の突厥
・蘇將軍(そしょうぐん)
・契苾加力(けいひつかりき)
高句麗の滅亡

突厥(とっけつ、とっくつ)
突厥とはモンゴル高原で活動していたトゥルク系遊牧民トルコ人である。
「とっけつ」と読むことが一般化しているが正しくは「とっくつ」。

552年、ユーラシアの東西にまたがる広大な地域に渡り突厥可汗国(とっけつかかんこく)を建設した。

現在のトルコ共和国は1923年の成立だが、トルコの建国はこの552年をもって建国とされる。

古代のトルコ人突厥中央アジアにも進出していた。

559年にはササン朝ペルシアと手を組んだ突厥によってエフタル(420年~567年まで存在した遊牧国家、イラン系を滅ぼした。

中央アジアモンゴル高原などにおいても古代、様々な民族が入り乱れた激動の時代があった。

日本書紀の中の突厥

668年、天智天皇7年の是の月(7月)に突厥に関する記述がみられる。

是の月に、蘇將軍(そしょうぐん)突厥の王子・契苾加力(けいひつかりき)らと水陸・二路(みずくぬがふたみち)よりして、高麗(こま)の城下に至る。

皇太子(同母弟の大海人皇子、のちの天武天皇は長津宮(ながつのみや)に遷っていた。
ようやくに水表(おちかた、海外のことでその情勢をさす)が聴こえてきた。

時代背景:
・668年は663年の白村江の戦いの敗戦から間もない。
また、内政では
・664年に冠位二六階を制定
・667年には都を近江大津宮に遷す
などをしていた。
なお、長津宮は博多付近にあったとされる。

以下で、先ほど登場した中国と突厥の将軍を紹介。

■蘇將軍(そしょうぐん)

唐の将軍、蘇定方(592年~667年)
660年3月には熊津道大総管となって軍を率い、百済の征討にあたった。

出典:蘇定方 - Wikipedia

■契苾加力(けいひつかりき)
契苾何力とも。
生没年は、不明~677年。
唐代前期の将軍。
テュルク系(=トルコ系)である。
出典:契苾何力 - Wikipedia

高句麗の滅亡
668年、唐軍と新羅軍は高句麗を攻撃。
平壌を占領、高句麗を滅ぼした
その後、唐は平壌安東都護府を置き統治した羈縻政策

716年には、日本では亡命してきた高麗人を集めた高麗郡武蔵国に置かれた。

高麗若光高句麗の寶臧王(ほうぞうおう)の息子。
高麗若光従五位下を授かっている。

なお、新羅の官位にササン朝ペルシャの「ササン」という官位がみられる。

↓は新羅の官位を扱った回と、高麗若光が登場した回

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■まとめ
突厥は主にトゥルク系遊牧民トルコ人
※ただしトルコ人が主というだけで、おそらく様々な民族と混じっているだろう。

日本書紀突厥がみえるのは668年。

高句麗滅亡の年。

唐の蘇將軍、突厥の契苾加力らによって高句麗が滅びる。

その海外情勢が天智天皇にも伝わっていたというときである。

<参考>
エフタル - Wikipedia