・突厥(とっけつ、とっくつ)
・日本書紀の中の突厥
・蘇將軍(そしょうぐん)
・契苾加力(けいひつかりき)
・高句麗の滅亡
■突厥(とっけつ、とっくつ)
突厥とはモンゴル高原で活動していたトゥルク系遊牧民、トルコ人である。
「とっけつ」と読むことが一般化しているが正しくは「とっくつ」。
552年、ユーラシアの東西にまたがる広大な地域に渡り突厥可汗国(とっけつかかんこく)を建設した。
現在のトルコ共和国は1923年の成立だが、トルコの建国はこの552年をもって建国とされる。
559年にはササン朝ペルシアと手を組んだ突厥によってエフタル(420年~567年まで存在した遊牧国家、イラン系)を滅ぼした。
中央アジアやモンゴル高原などにおいても古代、様々な民族が入り乱れた激動の時代があった。
668年、天智天皇7年の是の月(7月)に突厥に関する記述がみられる。
是の月に、蘇將軍(そしょうぐん)と突厥の王子・契苾加力(けいひつかりき)らと水陸・二路(みずくぬがふたみち)よりして、高麗(こま)の城下に至る。
皇太子(同母弟の大海人皇子、のちの天武天皇)は長津宮(ながつのみや)に遷っていた。
ようやくに水表(おちかた、海外のことでその情勢をさす)が聴こえてきた。
時代背景:
・668年は663年の白村江の戦いの敗戦から間もない。
また、内政では
・664年に冠位二六階を制定
・667年には都を近江大津宮に遷す
などをしていた。
なお、長津宮は博多付近にあったとされる。
以下で、先ほど登場した中国と突厥の将軍を紹介。
■蘇將軍(そしょうぐん)
唐の将軍、蘇定方(592年~667年)。
660年3月には熊津道大総管となって軍を率い、百済の征討にあたった。
■契苾加力(けいひつかりき)
契苾何力とも。
生没年は、不明~677年。
唐代前期の将軍。
テュルク系(=トルコ系)である。
出典:契苾何力 - Wikipedia
■高句麗の滅亡
668年、唐軍と新羅軍は高句麗を攻撃。
平壌を占領、高句麗を滅ぼした
その後、唐は平壌に安東都護府を置き統治した(羈縻政策)。
716年には、日本では亡命してきた高麗人を集めた高麗郡が武蔵国に置かれた。
高麗若光は高句麗の寶臧王(ほうぞうおう)の息子。
高麗若光は従五位下を授かっている。
なお、新羅の官位にササン朝ペルシャの「ササン」という官位がみられる。
■まとめ
突厥は主にトゥルク系遊牧民、トルコ人。
※ただしトルコ人が主というだけで、おそらく様々な民族と混じっているだろう。
高句麗滅亡の年。
その海外情勢が天智天皇にも伝わっていたというときである。
<参考>
・エフタル - Wikipedia