シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

400.日本書紀の原資料ともなった日本世記とは

日本世記とは日本書紀の原資料ともなった資料である。日本世記からわかることをもとに日本の古代を探る。次の流れで紹介していく。

・日本世記(にほんせいき)
・道顕(どうけん)
日本書紀 / 天智天皇元年4月(662年)
日本書紀 / 斉明天皇7年12月(661年)
・武烈王・金春秋
・文武王陵碑
匈奴 / Xiongnu
・金日磾(きんじつてい)
新羅の官位制度
新羅と古代日本・スサノオの関わり
・日本の天皇武烈天皇文武天皇
武烈天皇について
文武天皇について
・日本世記と創世記

■日本世記(にほんせいき)

天智天皇元年(662年)4月や斉明天皇7年12月に登場し参考とした資料。
高麗の僧、道顕(どうけん)による著書。

斉明天皇6年7月条
斉明天皇7年4月条
斉明天皇7年11月条
天智天皇8年10月条
・藤氏家伝の本文の逸文
でも引用された。

日本書紀では、著者の道顕の言葉に関する記述が
天智天皇元年4月(662年)
にもみられる。

百済高句麗が滅亡に至る事情
・日本の当時のt事情
が記されていたと考えられている。

なお、百済は660年、高句麗は668年に唐・新羅連合軍により滅びていた。

■道顕(どうけん)
道顕は生没年不明。
飛鳥時代高句麗からの渡来人で、僧侶。
藤原鎌足薨去をみとったと考えられる人物。

なお、藤原不比等が11歳の時、藤原鎌足が亡くなったという。

日本書紀 / 天智天皇元年4月(662年)
天智天皇元年4月(662年)、鼠が馬の尾の上で出産するという事件が起きたという。
道顕はこれを占い、次のように言ったとされる。

”北国(きたのくに)の人、南国(みなみのくに)に附かむとす。
蓋(けだ)し高麗敗れて、日本に属(つ)かむか”

これは「高句麗が滅亡して日本を頼る」という解釈であるという。

日本書紀 / 斉明天皇7年12月(661年)
上記の前年の661年に、道順が次のように言ったとされる。

"春秋の志(こころ)と言ふは、正(まさ)に高麗に起(おこ)れり。
而(しかう)して先づ百済に声(きか)しめむとす。
百済、近(このごろ)侵(をか)さるること甚しくして苦急(くるし)ぶ。
故(かれ)、爾(しか)いふといふ 。"

次の意味であるという。

金春秋新羅の第29代王)は高麗を討つことにあった。
しかし先に百済を討った。
それは百済新羅に侵掠(侵略)されることが多く苦しんでいた。
ゆえにそうなった。

上記の金春秋とは。

■武烈王・金春秋
新羅の第29代の王。
在位は654年~661年。
姓は金、諱は春秋。

660年に唐は水陸13万の兵を百済に送った。
金春秋も唐軍の総管として5万の兵でこれを迎えた。
百済義慈王を降し、これより百済を滅ぼした。

661年、金春秋は唐の高句麗出兵に参加.
軍を北上させている途上で病に倒れた。
661年6月、陣中で病死したとされる。

新羅の第30代王は文武王。
在位は661年~681年。
文武王は武烈王の次男である。

文武王は高句麗を滅ぼした。
そして朝鮮半島を統一した。
↓はwikipedia、武烈王

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↓はwikipedia、文武王(ぶんぶおう)

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■文武王陵碑
新羅の第30代の王・文武王の業績を称えた碑文。
682年に、慶州四天王寺に建立された。
前漢に投降した匈奴の「金日磾」が新羅王族のルーツであることが記されているという。

1796年、一部分が発掘されその後、紛失。
1961年、慶州市東部洞で下部分が発見された。
そして国立慶州博物館に所蔵される。
2009年、慶州市東部洞の住宅の水道の近くから上部分が発見されたという。
wikipedia、文武王陵碑

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匈奴 / Xiongnu
紀元前4世紀~93年頃。
中国の秦・漢時代にモンゴル高原で活躍した遊牧騎馬民族の部族連合体。
トルコ系とも、イラン系とも。

拼音:Xiōngnú ションヌゥ
英:Xiongnu
とされる。
過去記事にて匈奴の首都のあったノヨン・オール遺跡を取り上げた。
日本でいう前方後円墳である。
200を超える古墳群があるという。
匈奴の貴族の墓と判明している。
↓ノヨン・オール遺跡と前方後円墳の関係を取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

↓では匈奴匈奴の将軍・冒頓単于(ぼくとつぜんう)を取り上げた。

shinnihon.hatenablog.com

匈奴の発音、XiongnuのXionはシオンとも読める。
シオン(ザイオンとも)はイスラエルエルサレム地方の歴史的地名。
偶然だろうか。

続いて、新羅王族のルーツであるであるという金日磾について。

■金日磾(きんじつてい)
紀元前134年~紀元前86年の人物であるという。
前漢の政治家・軍人とされる。
↓はwikipedia、金日磾

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新羅と西洋由来の民族との関わりについて。

新羅の官位制度
新羅の官位制度にササンがみられる。
8等級の沙飡(ササン)である。
ササン朝ペルシア由来と推測される。

過去記事では新羅の官位、ササンについて考察した。

shinnihon.hatenablog.com

wikipedia新羅では新羅の官位が記されており、沙飡も確認できる。

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ほか、日本書紀にみえる新羅の薬師・金波鎮漢紀武(こみまちにかにきぶ)の官位はバチカンから来ていると推測される。
↓は金波鎮漢紀武について考察した回

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新羅と古代日本・スサノオの関わり
日本の伊邪那岐イザナギは紀元前765年頃に生誕した人物。
その子のスサノオ新羅遠征を行っている。

その後の歴史ははっきりとはわからない。
少なくとも、やがて西洋由来の匈奴朝鮮半島に来たようだ。

一方、古朝鮮には檀君神話、卵生神話もみられる。

また、高句麗の第15代の王・美川王(びせんおう、在位:300年~331年)が
313年10月に楽浪郡を、314年に帯方郡を滅ぼしたとされる。

一説には檀君のダンはダン族のダンではないかとも。
ヤコブとビルハの間に生まれたヤコブの5番目の息子がダン(族)。
6番目の息子がナフタリ(族)。

紀元前830年頃からの伝わる日本史を記した回

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ほんとうに朝鮮にダン族が渡来していたかは検証できないが、ナフタリ族については

淡路島に古代のイスラエル遺跡が存在、ナフタリ族が渡来していたと考えられる。
伝扱いだが、指輪が出土している。

↓ナフタリ族とフタナジマについて紹介した回

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■日本の天皇武烈天皇文武天皇
新羅の武烈王、文武王を紹介した。
一方、日本の天皇にも武烈天皇文武天皇がいる。
この名前は淡海三船(おうみのみふね)が名付けたものである。

淡海三船神武天皇から41代・持統天皇を確実とし、46代・孝謙天皇あたりまでに漢風諡号をつけたのではないかと考えられている。

↓は淡海三船(おうみのみふね)、生没年は722年~785年。

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武烈天皇について
前代が仁賢天皇、次代が継体天皇となる天皇である。

日本書紀では、武烈天皇の異常な行為により暴君として記されている。
古事記では悪い記述はみられない。

継体天皇の即位を正当化するため、日本書紀武烈天皇を暴君に仕立てたのではないかとする説がみられる。

新羅・武烈王こと金春秋は百済を滅ぼした新羅の人物である。
これをもとに「武烈」と名付けた可能性が高い。
↓はwikipedia武烈天皇
武烈天皇 - Wikipedia

文武天皇について
草壁皇子天武天皇皇子)の第一皇子。
在位は697年~707年。
諱は珂瑠(かる)。

淡海三船(おうみのみふね)は生没年は722年~785年。
なので文武天皇は少しだけ前の人物となる。

新羅の文武王は高句麗を滅ぼした人物。
淡海三船文武天皇にどのような意味を込めて文武と名付けたのだろう。

なお、竹取物語に出てくる高官たちは文武天皇の時代の人物。
成立は平安時代初期、貞観(じょうがん、859年~877年)から延喜(えんぎ、901年~923年)までの頃とされる。

この竹取物語の御門(みかど)文武天皇である。
↓は竹取物語の登場人物について紹介した回

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■日本世記と創世記
日本世記というと、創世記が想起される。

もちろん、当時、旧約聖書という書物自体は既に存在していた。
ただし日本において「創世記」などと呼ばれていたかは定かではない。

ただ、694年から710年にかけて当時の都であった新益京が「あらましのみやこ」とも「しんやくきょう」とも呼ばれていた。新約、旧約の概念があったとも推定される。

特に日本書紀について、道顕藤原鎌足をみとっており、藤原不比等とも面識があると推測される)などの存在からも創世記などの影響が多少なりともあるとみてよい。

藤原京は学術用語であり、当時は新益京と呼ばれていたことを紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

胸肩氏(宗像、現・福岡県宗像市宗像大社がある)や倭奴国の奴国なども、「キョウ」「奴」などから匈奴由来、西方と関係があると推定される。イランないしはトルコ系の民族。

<参考>
道顕 - Wikipedia
総管 - Wikipedia
淡海三船 - Wikipedia