京都府・京都市の右京区、嵯峨野地域は秦氏が開発した地域とされる。蛇塚古墳、天塚古墳などの主要古墳を取り上げつつ、古代の歴史を探っていく。次の流れで紹介していく。
・嵯峨野(さがの)
・垂箕山古墳(たるみやまこふん)
・天塚古墳(あまづかこふん)
・蛇塚古墳(へびづかこふん)
・いさら井
・木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)
■嵯峨野(さがの)
嵯峨野は、京都府京都市右京区の地名である。
右京区には渡月橋、竹林の小径、大覚寺などがある。
嵯峨野は秦氏によって開発された地域である。
↓はwikipedia、嵯峨野
■垂箕山古墳(たるみやまこふん)
所在は京都府京都市右京区太秦垂箕山町。
形式は前方後円墳。
大きさは墳丘長63m。
築造は6世紀初頭あるいは6世紀中頃。
横穴式石室がある。
推定で被葬者は秦氏一族とされる。
↓はwikipedia、垂箕山古墳
宮内庁は高畠墓(たかばたけのはか)とし、第50代桓武天皇皇子の仲野親王の墓と治定する。
これは1875年(明治8年)の治定に基くと思われる。
しかし仲野親王(なかのしんのう)は桓武天皇の第12皇子で生没年は792年~867年。
時代が異なる。
このため実際の被葬者は明らかでない。
ちなみに近隣の
・大覚寺とは2.7kmほどの距離
・平安京(現在は平安京跡)との距離は約6kmほど
である。
■天塚古墳(あまづかこふん)
所在は京都府京都市右京区太秦松本町。
形状は前方後円墳。
大きさは墳丘長73m。
築造は6世紀前半。
埋葬施設として横穴式石室が2基存在。
・後円部西側
・くびれ部
に位置する。
両者の石室とも稲荷の祠が祀られている。
■蛇塚古墳(へびづかこふん)
秦氏の古墳と推定されている。
蛇塚古墳の名前の由来は石室内に蛇が棲息していたためとされる。
現在は墳丘の土がなくなり石室が露出している。
所在は京都府京都市右京区太秦面影町。
京都盆地(山城盆地)西部の嵯峨野台地、南の縁である。
形状は前方後円墳。
大きさは墳丘長75m。
築造時期は6世紀末から7世紀初頭。
石室があり、横穴式石室である。
全長は17.8m。
縦4m、横5m、高さ2.5mもある巨石を利用し、大小30数個からなる石を積み上げて構築されているという。
奈良の石舞台古墳(築造は7世紀初頭)に類似するという。
この時代は畿内の豪族は前方後円墳の築造をやめ、円墳や方墳へと形式が変化していた時代。
そのような中での「太秦」での「前方後円墳」であったとされる。
↓はwikipedia、蛇塚古墳
太秦・嵯峨野地域の主要な古墳としては
・垂箕山古墳が6世紀初頭に築造
・天塚古墳が6世紀前半
・蛇塚古墳などが6世紀末から7世紀初頭
・甲塚古墳、広沢古墳が7世紀前半
に築造されていった。
■広隆寺(こうりゅうじ)
所在は京都市右京区太秦蜂岡町。
秦氏の氏寺。
木造・弥勒菩薩半跏像(みろくぼさつはんかぞう)を蔵する。
宝冠弥勒とも。
彫刻の部の国宝・第一号とされる。
この像の製作は7世紀とされる。
制作が国内説、渡来説がある。
渡来説が正しい場合、日本書紀・623年(推古天皇31年)に新羅に請い、渡来させた仏像ではないかとされる。
時代の参考:聖徳太子は生没年574年~622年。実在の人物である。
↓はgooglemap、広隆寺
下記にみられるように、菩薩半跏像は6~7世紀の、高句麗、百済、新羅において半跏思惟像が盛んに制作されたという。
特徴として唇に微笑のあるものは「アルカイックスマイル」と呼ばれる。
別途紹介予定。
↓は文化遺産オンライン、菩薩半跏像
■いさら井
京都府京都市右京区太秦西蜂岡町にいさら井がある。
いさらは「少ない」の古語であるとされる。
いさら + 井で「水が少ししかない井」とされる
いさら井は古代のイスラエルと関係があるのではとする説も。
いさらは「いそら」の転訛、結局はイスラエル出身者と関係があったのだろう。
↓はgooglemap、いさら井
↓にていそらはイソラ・エルを紹介
↓にてワダツミ神社とイソラエビスを紹介
↓にて和田、ワタの源流と考えられる秦氏のホータン地区とのつながりを紹介
■木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)
所在は京都府京都市右京区太秦森ケ東町。
別称として
・木嶋神社/木島神社(このしまじんじゃ)
・蚕の社(かいこのやしろ)
などとも。
祭神は
・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
・大国魂神(おおくにたまのかみ)
・穂々出見命(ほほでみのみこと)
・鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
・瓊々杵尊(ににぎのみこと)
とされる。
延喜式・神名帳では「木嶋坐天照御魂神社」と記載され、本来は天照御魂神(あまてるみむすびのかみ、あまてるみたまのかみ)を祀った神社とされる。
延喜式・神名帳では山城国の木嶋社のほか、大和国、摂津国、丹波国、播磨国、対馬国などで天照御魂神・天照神・天照玉神を祀る祠の存在が見られるという。
皇祖神の天照大神とは別の神格と考えられている。
しかし、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祀ることなどから本当は天照大神を祀ったものだろう。
おそらく神社の創立当初時点では出自を伏せた上で、日本国オリジナルとしてのユダヤ教を参考とした古来から続く神道の体系化、神社のスキーム化に貢献頂いたのだろう。
↓は天之御中主が高千穂峰の王国の初代王であることを紹介した回、天照は推定6代目の初代女王
<参考>
・嵯峨野 - Wikipedia
・垂箕山古墳 - Wikipedia
・仲野親王 - Wikipedia
・京都市情報館 蛇塚古墳概要
https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000307/307257/shiori.pdf
・天塚古墳 - Wikipedia
・広隆寺 - Wikipedia