埼玉県の吉見百穴を取り上げる。吉見百穴は丘陵の斜面を用いた横穴墓であり、ひじょうに特徴的である。またさきたま古墳群とも近く重要なエリアである。次の流れで紹介していく。
・吉見百穴(よしみひゃくあな、よしみひゃっけつ)とは
・吉見百穴の横穴墓の築造
・三ノ耕地遺跡(さんのこうちいせき)
・山ノ根古墳
・まとめ
■吉見百穴(よしみひゃくあな、よしみひゃっけつ)とは
所在は埼玉県・比企郡吉見町。
丘陵や台地の斜面を掘削した横穴墓。
その数は現存で219基の穴があいているという。
かつての説としてコロポックルのような小人の住居説も唱えられたが、現在ではこの穴は横穴墓とされている。
なお、さきたま古墳群とは約14kmほど、古墳の上につくられた古墳・前玉古墳とは13kmほどの距離にある。
↓はgooglemap、吉見百穴
↓はさきたま古墳群、稲荷山古墳や金錯銘鉄剣を紹介した回
↓は古墳の上につくられた神社として前玉神社を紹介した回
■吉見百穴の横穴墓の築造
吉見百穴の横穴墓の築造時期は6世紀から7世紀代とされる。
1887年、坪井正五郎氏の発掘調査により、下記の出土品がみられるという。
・平瓶(ひらか)
・短頸壺(たんけいこ)
・フラスコ形長頸瓶(ちょうけいへい)
・高杯(たかつき)
・脚付壺(ひゃくつきつぼ)
・提瓶(さげべい)
・𤭯(はそう)
・耳環(じかん)
・金銅金具(こんどうかなぐ)
・玉類(勾玉、管玉)
・鉄鏃(てつぞく)
・大刀類
がみられる。
■三ノ耕地遺跡(さんのこうちいせき)
所在は吉見町久米田。
縄文時代晩期(2500年前)の集落跡が確認されている。
この遺跡から人々の痕跡がいったん消える。
しかし突如、3世紀後半~4世紀初頭に多数の方形周溝墓と3基の前方後方系墳墓(前方後方墳)が築かれた。
方形周溝墓、前方後方墳も共に同時期に築かれたという。
↓はgooglemap、三ノ耕地遺跡
■山ノ根古墳
そしてその直後、山ノ根古墳が築かれた。
方式は前方後方墳。
本格的な古墳。
築造は4世紀初頭とされる。
これにより比企地域での古墳時代の幕開けとなったという。
↓はgooglemap、山ノ根古墳
↓はwikipedia、山ノ根古墳
■まとめ
年代順にまとめる。
・三ノ耕地遺跡(さんのこうちいせき)が縄文時代晩期にみられる
・その後、3世紀後半~4世紀初頭、多数の方形周溝墓と3基の前方後方系墳墓が出現
・続けて山ノ根古墳が4世紀初頭に築かれる
・吉見百穴(よしみひゃくあな、よしもひゃっけつ)・横穴墓の築造時期は6世紀から7世紀代
・近隣にさきたま古墳群(5世紀後半から7世紀中頃)がある
以上より、吉見百穴やさきたま古墳群も含むエリアでは次の歴史が展開される。
朝鮮半島を経由した方形周溝墓の墓葬を持つ集団が3世紀後半(200年代後半)に渡来、勢力を持ち方形周溝墓や前方後方系墳墓を築造。
やがて九州・ヤマト国のヤマトタケルが東征、平定されていき、その後次第に近畿にヤマト王権が確立していく。
471年(辛亥年)、「ヲワケの臣」または「ヲワケコ」が杖刀人首(杖刀人のトップ)として「ワカタケル大王(雄略?)」に仕えたという鉄剣が残る。
その後、埼玉県・比企郡吉見町では吉見百穴が6世紀から7世紀代にかけて横穴墓がつくられた。
<参考>
・埼玉県・吉見町 国指定史跡 吉見百穴