現在は西暦2023年。皇紀では「2683年」にあたる。西暦に660年足せばよいので覚えやすい。さて、この「皇紀」とは一体何か。どう定めたのだろうか。
■西暦とは
まずは西暦から。西洋諸国においてイエス・キリストが誕生した年をもって元年として数える方法。「紀年法」の1つ。ちなみに西暦元年にあたる年は、実は生後4年め頃であったことがわかった。
■皇紀とは
日本の初代天皇である「神武天皇」が即位した日を日本の「紀元」とした年の数え方。
■元号とは
西暦や皇紀のほかに「元号」がある。令和、平成、昭和のように特定の年代に対してつけた称号。中国から取り入れた制度である。中国では漢の武帝の時代に始まり、清の時代まで使われた。日本で採用されたのは中国が唐の時代から。大化の改新(645年)で有名な「大化」から始まった。現在、公式的にこの元号を使っているのは日本のみとされる。
■皇紀を使い始めたのはいつ?
1872年。皇紀は明治政府が定めた日本独自の紀元。明治政府が1872年の明治5年に神武天皇が即位した年をもって、記紀(古事記と日本書紀)を根拠とし、紀元前660年を皇紀元年として制定した。王政復古を行って天皇を君主とし、その正当性の根拠となる日本書紀に基づき、天皇の始まりの年を紀元として定めたことになる。
■年代の妥当性に生じた疑問
江戸時代より日本書紀の「天皇の始まり」の妥当性が疑問視されていた。例えば、天皇の在位年数が不自然であったり、魏志倭人伝に記録された年代との整合性を疑問視するなどの指摘がなされていた。
■辛酉革命説
皇紀元年となった基準は日本書紀成立当時、どのように定めたのだろうか。まず日本書紀が完成したのは720年。その少し前の681年、天武天皇が帝紀など日本書紀の参考文献となる歴史書の編纂を指示したとされている。そして紀元前660年という年に定めた理由は諸説あると言われているが「辛酉革命」説が最有力説である。日本書紀に「辛酉」という干支の記述がみられることから、干支などを判断材料として設定しているのではないかする説である。
■辛酉が基準となる年
日本書紀の基準年となったのは推古天皇の601年とされる。601年は推古天皇9年にあたる年で「辛酉」の年であった。斑鳩宮が造営された年でもある。冠位十二階が制定された603年の少し前。干支が辛酉(しんゆう、かのととり)にあたる年には大変革が起こるという讖緯(しんい)説のうちのひとつ。讖緯説は中国で前漢から後漢にかけて流行した未来予言説。日本には7世紀初頭、三革説として伝えられた。
■三革説
三革説とは甲子革令、戊辰革運、辛酉革命の3つある。聖徳太子の十七条憲法の発布は甲子の年、604年であった。901年以後、辛酉の年には改元が行われた(例:延喜901~、応和961~、治安1021~)。それだけ影響力があった、信じられていたということ。この「辛酉の年」を神武天皇の紀元に設定したのではないか。
■干支の始まり
干支は古代中国より始まり、百済より始まった。日本では推古朝の時代、604年から採用された
■なぜ紀元前660年になったのか
601年より21回分×60年前の「紀元前660年」と設定した。魏志倭人伝などとの歴史書との整合性も参考になったと推測される。
■まとめ
・辛酉革命説、601年の辛酉、魏志倭人伝などを参考としつつ、紀元前660年と設定された。
■豆知識
・北イスラエル王国が前722年に滅ぶ。このため、約60年間でいくつかの支族が日本に移動し、紀元前660年からユダヤ国家として日本が建設されたという説がちまたでみられる。しかしこれは誤りではないだろうか。紀元前660年の根拠は辛酉革命説に基づく。ただし、渡来系の権力中枢者にユダヤ人の血を引く者の指南から、北イスラエル王国が崩壊後であり、かつ辛酉革命説をとって「紀元前660年」でいこうとなった可能性も否定できない。
・日本書紀の編纂として判明している人物は、舎人親王(とねりしんのう)、川嶋皇子(かわしまのみこ)、中臣連(なかとみのむらじ)、紀清人(きのきよひと)、三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)、太安万侶ら。
<参考>
・辛酉 - Wikipedia
・斑鳩宮 - Wikipedia
・神武天皇即位紀元 - Wikipedia
・日本書紀と辛酉革命説 神功皇后・応神天皇と八幡宮【社会人のための高校日本史2022】 - YouTube
・元号一覧 (日本) - Wikipedia
・干支 - Wikipedia