シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

304.瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と日本の起源・紀元前660年とは何か

今回はニニギノミコト瓊瓊杵尊邇邇芸命)とコノハナノサクヤヒメを取り上げる。ニニギノミコトの活躍した時代を推定し、日本の古代にまつわる物語に秘められた謎をひも解いていく。次の流れで紹介していく。

ニニギノミコトとその家族
・ニニギと宮崎との関係
ニニギノミコトの活躍年代
・日本の起源・紀元前660年とは何か
・ニニギとコノハナノサクヤヒメの出会い
大山津見神の時代推定
コノハナノサクヤヒメの子孫
ヒコホホデミノミコト
コノハナノサクヤヒメ富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)

ニニギノミコトとその家族
ニニギは古事記日本書紀で登場する人物。
実在の人物である。
このニニギノミコトはいつ頃の人物だろうか、まずは家族関係をおっていく。

天照大神の孫がニニギノミコトとされている。

天照大神の父はイザナギノミコトである。

イザナギ大分県出身で紀元前765年頃の人物。
紀元前741年頃、イザナギイザナミが知り合い、やがて結婚に至る。

そして2人の間に子供が生まれた。
長女は大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)天照大神
その2年後には弟のスサノオが生まれた。

ではニニギの父は誰だろうか。

日本書紀ではニニギノミコト

天照大神の子の天忍穂耳尊(アメノホシホミミノミコト)
高皇産霊尊タカミムスビノミコト)の娘の栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメノミコト)
の2人の間に生まれた子とされる。

■ニニギと宮崎との関係
西都原古墳群の近くの「都萬神社」は宮崎に所在する。

なぜニニギノミコトが宮崎とゆかりがあるのだろうか。

その理由は、アメノミナカヌシが築いた高千穂峰の王国(鹿児島と宮崎にまたがる)に、アマテラスがその能力を乞われて招集されたためである。

この王国の2代目の王が高皇産霊尊
天照大神は6代目頃の王(女王)にあたる。

ニニギノミコトの活躍年代
家族関係がわかったところで、ニニギはいつ頃の人物だろうか。

これは推測する必要があり、1世代を25年~30年と仮定し計算する。

イザナギが生まれたのが紀元前765年頃とし、それぞれの人物から誕生年を推測すると次のようになる。

イザナギ:紀元前765年頃
・アマテラス:紀元前740年~紀元前735年(推定)
・アメノホシホミミ(アマテラスの子):紀元前715年~紀元前710年(推定)
・ニニギ(アマテラスの孫):紀元前690年~紀元前685年(推定)
↓はwikipedia、アメノホシホミミ 

ja.wikipedia.org


当時の人びとの活躍年代が~30歳くらいまであったと仮定すると、
ニニギは推定で紀元前690年頃に生まれ、紀元前660年頃まで活躍した人物と推定できる。

■日本の起源・紀元前660年とは何か
ニニギの次の世代はヒコホホデミである。
この紀元前660年とは神武天皇が即位した年である。
神武天皇の時代はヒコホホデミの時代にあった事実を象徴させているのかもしれない。

神武天皇」自体はそもそも人格として実在しない人物である。

では日本書紀が描く史跡は何を表しているのだろうか。

神武天皇」はアメノミナカヌシの個性をベースとしつつ、その史実はヤマトタケルの東征、そしてスサノオノミコトといった人物の史実を織り交ぜながら構成されたと考えられる。

ところで、日本書記のいう神武天皇の始まりは紀元前660年に設定されている。
ではいったい、ヒコホホデミの時代とは何だったのだろう。
ヒコホホデミノミコトにて考察していく。
ただし、ヒコホホデミノミコトにまつわる物語の詳細は別記事とする。
↓はwikipediaニニギノミコト

ja.wikipedia.org

↓は過去記事、日本書紀は紀元660年を日本の始まりとした

shinnihon.hatenablog.com

まずはニニギとコノハナノサクヤヒメについて。

■ニニギとコノハナノサクヤヒメの出会い
コノハナノサクヤヒメニニギノミコトの妻となった実在の人物。
大山津見神の娘とされる。

以下で古事記より、ニニギとコノハナノサクヤヒメ(以下、サクヤヒメ)の出会いを紹介。

二人の出会いは笠紗の御前(かささのみさき)
※笠紗の御前は野間岬の古称で鹿児島県薩摩半島の北西端の岬。

「誰の娘か」とニニギは問う。
サクヤヒメは答える。

大山津神の娘です。
名前は神阿多都比売(かむあたつひめ)です。
またの名を木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と言います。
※阿多は南さつま市の旧・加世田市笠紗町あたりとされる。

「兄弟はいるのか」とニニギが問う。
サクヤヒメは「姉に石長比売(いわながひめ、以下イワナガヒメがいます」と答える。

「わたしはあなたと結婚したいと思うが、どうか」

「自分では決めかねます。わたしの父、大山津見神に会って欲しい」
サクヤヒメはそうニニギに伝えた。

これを聞いた大山津見神はとても喜んだ。
そして大山津見神は姉のイワナガヒメをそえて百取の机代(ももとりのつくえしろ、たくさんの結納品)を持たせた。

しかしその姉のイワナガヒメはひどく醜くかったとされる。
ニニギはイワナガヒメを送り返す。
その一方、ニニギはサクヤヒメと一晩をともに過ごす。

大山津見神はとても恥じた。
そして言った。

わたしの娘を二人一緒に奉ったのには理由がある。
イワナガヒメを遣わしたのは天つ御子(あまつみこ)の命は雪が降り、風が吹こうとも、つねに石(いわ)のごとくにして、常磐(ときわ、永遠不変)に動かないでしょう。

サクヤヒメを遣わしたのは木の花(このはな)、桜の花のようにの栄えるようにと、あらかじめ誓約をたてて奉ったのである。

しかしそのイワナガヒメを返し、サクヤヒメを留めた。

ゆえに天つ神の御子の御寿(みいのち)は、木の花、桜の花のように短くなることでしょう。

これをもって天皇(すめらみこと)たちの御命(みいのち)は短いものとなった。
後の天皇たちの寿命が現実的に近くなる。
ただし編年上、神武天皇のように寿命が長い場合もみられる。

大山津見神の時代推定
大山津見神はいつ頃の人物だろうか。
これも推測するしかない。
大山津見神コノハナノサクヤヒメの親である。
仮にニニギの父のアメノホシホミミと同年代とすれば紀元前710年頃の人物だろうか。
↓はgooglemap、笠紗の御前とされる野間岬

maps.app.goo.gl

コノハナノサクヤヒメの子孫
ニニギ以降の子孫について。

古事記から、ニニギとサクヤヒメの出会い以降を紹介する。

しばらくの時がたった。
サクヤヒメはニニギのもとに参上、ニニギに言う。

わたしは妊娠しています。
出産間近で臨月を迎えました。
この天つ神の御子を産みたいと思っています。
ひそかに産むわけにはいきません。
それゆえお認めください。

ニニギは言う。

サクヤヒメよ。
一晩で子を宿したというのか。
それは我が子ではない。
国つ神の子ではないのか。

サクヤヒメは答える。
妊娠している子がもし国つ神の子なら出産は安らかではないでしょう。
しかし天つ神の御子なら出産は安らかとなるでしょう。
※天と地上との約束を地上側からの誓約の形で表現しているとされる

サクヤヒメは戸口のない大きな建物をつくった。
そしてその殿の内に入り、土(はに)で塗り塞いだ。

そして出産を迎えた。
産む際にその殿に火をつけた。
そして火中で出産をした。
火が燃え盛るとき、3人(3柱)の子どもが生まれた。

火照命(ホデリノミコト)
 隼人阿多の君(はやとあたのきみ)の祖先。
 海幸彦(ウミサチヒコ)として知られる。

火須勢理命(ホスセリノミコト)
 火が盛りを過ぎたころの意味とされる。

火遠理命(ホヲリノミコト)
 火の勢いが沈静したことを意味する名前。
 またの名を天津日高日子穂々出見命(あまつひこひこほほでみのみこと)
 山幸彦(ヤマサチヒコ)として知られる。

上記は古事記による。
なお古事記日本書紀で差異があり、日本書紀では
・第一子がホスソリ(海幸彦)
・第二子がヒコホホデミ(山幸彦)
・第三子がホアカリ(火明命)
とされる。

ヒコホホデミノミコト
彦火火出見尊ヒコホホデミノミコトは初代・神武天皇の諱である。
上記でニニギを紀元前690年頃に生年、紀元前660年頃まで活躍した人物と推定した。

上記と同じロジックでヒコホホデミノミコトの生年と活躍年を推定する。
すると紀元前660年頃に誕生、紀元前630年頃まで活躍した人物と推定できる。
これは神武の在位、紀元前660年~紀元前585年と重なってくる。

なお古事記では
ヒコホホデミノミコトは高千穂宮に「580年間いた」
と記されている。

この580年という具体的数値は何を示しているのだろうか。

ここでは次の2パターンにわけて考える。

1.ヒコホホデミノミコトの時代から580年後としたとき

神武の在位期間である
紀元前660年~紀元前585年
の即位年、退位年(没年)のそれぞれで考えてみる。

・即位年:紀元前660年から580年時代が下ると、紀元前80年頃となる
・退位年:紀元前585年から580年時代が下ると、紀元前5年頃となる

この紀元前80年頃~紀元前5年頃の間で日本史でわかっている史実といえば、
倭奴国王から紀元後の57年頃、後漢光武帝に遣使をしたときに重なる。
このとき受領したとされる金印は福岡県の「志賀島」から見つかっている。

志賀島にまつわる一族について別記事にて取り上げる。

※「唐書」では倭奴国は鹿児島にあったことが記されている
以下は過去記事にて中国が倭奴国をどこと認識していたかを紹介

shinnihon.hatenablog.com

2.天之御中主の時代から580年後としたとき
おおよそ天之御中主は紀元前800年頃の人物である。
天之御中主より高千穂峰の王朝が始まるため、およそ紀元前800年の580年後は紀元前220年頃となる。
高千穂峰の王朝も衰退、やがて卑弥呼、熊本付近の連合国にバトンが移っていく。

なお、東アジア、中国では秦の始皇帝の在位が紀元前247年 - 紀元前210年。

秦の滅亡後、日本の各地域でも渡来人の影響があっただろう。

紀元前2世紀、吉武高木遺跡、奴国、伊都国では変化も大きい。
↓過去記事、吉武高木遺跡、奴国、伊都国を取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

↓過去記事、奴国、須玖岡本遺跡を取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

続いてコノハナノサクヤヒメつながりにて富士山本宮浅間大社を紹介。

富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)
所在は静岡県富士宮市宮町。
主祭神木花之佐久夜毘売命このはなのさくやひめのみこと)
相殿神瓊々杵尊(ににぎのみこと)大山祇神(おおやまづみのかみ)
コノハナノサクヤヒメは日本神道と縁が深い。
↓は富士山本宮浅間大社より、由緒が紹介されている
富士山本宮浅間大社:御由緒

<参考>
・新版古事記 中村啓信 訳注 角川ソフィア文庫
ニニギ - Wikipedia
タカミムスビ - Wikipedia
アメノオシホミミ - Wikipedia
栲幡千千姫命 - Wikipedia
オオヤマツミ - Wikipedia
コノハナノサクヤビメ - Wikipedia
火須勢理命 - Wikipedia

ホデリ - Wikipedia
火須勢理命 - Wikipedia
ホオリ - Wikipedia