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201.日が昇る国「日高見国」はどこにあったか~常陸国風土記・信太郡を示す地名のナゾ~

日高見国とは何か。いったいどこにあったのだろうか。
 ・日高見国のいろいろ
 ・大祓詞における日高見国
 ・大倭とはなにか
 ・常陸国風土記における日高見国
 ・日本書紀の日高見国
 ・まとめ
以上にて、大祓詞常陸国風土記日本書紀などをもとにしつつ、太陽がのぼる東の国に太陽信仰の人びとが渡来した可能性を考察していく。

■日高見国(ひたかみのくに/ひだかみのくに)のいろいろ
日高見国は定義によっていろいろある。そのいくつかを紹介する。

大祓詞(おおはらえのことば)における日高見国
大祓詞神道の祭祀(さいし)に用いられる祝詞(のりと)の一つ。大祓式に用いられ、中臣氏が専らその宣読を担当した。「祭祀」は感謝や祈り、慰霊のための行為。「祝詞」は神に対して唱える言葉。その大祓詞の中に「大倭日高見国」という文言が登場する。この日高見国は大和国奈良県を指している。大祓詞の成立は天智・天武朝説、文武天皇朝(在位697年~707年)説がある。ただしそれ以前から元となる文章が成立していたとされる。

■大倭とはなにか
おおやまと、あるいはだいわとも読む。倭国の定義は変遷をたどっている。まずかつて九州のことを指していた時代がある。これと区別するため倭から和の文字を使い、大和(やまと)へと転じていった。

倭国をさらに時代でわければ、倭奴国(鹿児島)の時代があった。そしてその後、倭国大乱をへて邪馬台国、この当時は「大和国(やまとこく)」と呼ばれていた。邪馬台国は当て字である。その国に卑弥呼が30余国の地域の王をついだ。その後ヤマトタケルが人民を引き連れて東征(3世紀後半~4世紀前半)する。そして伽耶任那に代表される朝鮮への進出もあり、倭人などともよばれていた。これがヤマト王権による奈良の朝廷が日本の首都、倭国を指すようになり「大倭」を示すと考えられる。

常陸国風土記における日高見国
常陸国風土記では具体的なエリア名がわかる。「信太郡(しだぐん)」がもとの日高見国(ひたかみのくに)であったこと記されている。その信太郡の位置に関する記述もある。東は信太流海(しだのながれうみ)、南は榎浦流海(えのうらながれうみ)、西は毛野河(けののかは)、北は河内郡(かわちのこおり)とされる。またその信太郡という名前の由来が示されていて「赤旗が垂れ下がる国」からとったとされる。

※地名から判断すると毛野は近江毛野(おうみのけな)氏、河内は河内王朝、難波 (なにわ:現在の大阪市) の上町台地一帯の由来の人たちの関与が推察される。信太については後述する。

日本書紀の日高見国
日本武尊の東征時、常陸国の近くに日高見国があったとされる。景行天皇27年2月に日高見国に関する記述がある。状況は武内宿禰が東国(あずまこく)から帰還した際、次のように天皇に報告する場面がある。
訳しながら紹介しています。

東の夷(あづまのひな)(※東のまだ従わない豪族)の中に日高見国(ひだかみのくに)がある。その国の男女は髪を結い分けている。体に入れ墨をしている。性格は勇敢で強い。これを蝦夷(えみし)という。土地(くに)は肥沃で広い。撃ちとるべし。

また景行天皇40年は東征中、その是歳の条で総(かみふさ)から陸奥国(みちのくのくに)に入るあたりで再び日高見国が登場する。

蝦夷を平定。日高見国より還り、西南(ひつじさるのかた)、常陸(ひたち)を経て、甲斐国(かいのくに)に至る。
訳しながら紹介しています。

とある。これからすると、常陸国すべてが日高見国というわけではないことがわかる。

■まとめ
大祓詞では日高見国に「大倭」をつけて区別しつつもともとあった「日高見国」という名前が特別であることを示している。

日本書紀では日高見国に住む人々の文化や性格が記述されている。また土地が広くて肥えていることが示されている

常陸国風土記では少なくとも「信太郡」がその日高見国に含まれていたことがわかる。名前の由来が明かされ「赤旗が垂れ下がる国」から名づけたとされる。

■考察~「羊」由来の人びとが日高見国にいたか~

・信太について
 信太(しだ)は「羊歯」とも書く。羊に関連する言葉。隠語の一種ではないか。

風土記に残すテクニック
 風土記の趣旨は日本書紀の補完、特に土地のゆかりを示すためのもの。地名や距離、由来などを報告させる中央省庁から注文されたが存在する。そのルールを遵守しつつ自分たちの存在を記録しようとする独特のテクニックがみられる。
 例:旗(おそらく秦)⇒垂れる(しだれる)⇒ シダ ⇒ 信太
土地の名前を変更するお達しがあった際、地名として残したのではないか。

・浮島の村
常陸国風土記の信太郡において次の記述がある。

乗浜の里の東に浮島の村がある。長さ・・・(略)。幅・・・(略)。住んでいる民は製塩を食として、九つの神社がある。彼らは言葉にも行動にも慎み深く禁忌に触れないようにしている。

この浮島は霞ケ浦の南、茨城県稲敷市浮島と思われる。浮島村はかつて存在していた村だ。過去に浮島村、古渡村が統合され桜川村となった。この地区は現在は干拓されている。かつては霞ケ浦に浮かぶ島であったとされる。

・芝山古墳群とのエリア的な近さ
「芝山古墳群(殿塚・姫塚)」は千葉県山武郡横芝光町にある古墳。特徴的な帽子、ペイオトの髪型を示す武人埴輪が出土している。古墳は6世紀後半から7世紀初頭のもの。その芝山古墳群と茨城県稲敷市浮島はおよそ50kmの距離。
千葉県のHPより芝山古墳群出土の埴輪が確認できる↓
芝山古墳群(殿塚・姫塚)出土埴輪/千葉県

過去記事:ペイオトに関して扱った記事はこちら↓
shinnihon.hatenablog.com

■考察のまとめ
常陸国風土記の日高見の国・信太郡の位置を示す地名は4つ。信太、榎浦、毛野、河内である。このうち3つが奈良の大和王権に関連する独特な地名となっている。
・河内:河内王朝、難波 (なにわ:現在の大阪市) の上町台地一帯をさす
・毛野:近江毛野(おうみのけな)氏か。すると波多氏の氏族である。
・信太:旗(秦)が垂れる(しだれる)を由来⇒ シダ ⇒ 羊歯⇒秦氏、羊由来の人

<参考>
風土記 上 常陸国出雲国播磨国 /中村啓信
日本書紀(二)岩波文庫
信太郡 - Wikipedia

浮島村 (茨城県) - Wikipedia
大祓詞とは何かを知りたい場合⇒
大祓詞 - Wikipedia
大祓詞の本文そのものを見たい場合は ⇒ 大祓詞 (神社本庁例文) - Wikisource