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205.山城国風土記の伏見稲荷大社と秦伊侶具の名前のヒミツ

過去記事「201.日が昇る国「日高見国」はどこにあったか」では常陸国風土記・信太郡を取り上げ、秦氏の氏族の一部が常陸国茨城県方面)に存在していたことを示した。本記事では「山城国風土記」に記された秦氏を取りあげる。次の順にて紹介していく。
 ・山城国風土記
 ・鳥部里(とりべのさと)の条
 ・伊奈利社の条
 ・稲荷神社の創建
 ・いなりとインリ説
 ・秦伊侶具
 ・ユダヤ人の肌の色
 ・秦氏壬申の乱

山城国風土記
風土記」は713年に元明天皇が諸国に編纂を命じたとされている。山城国風土記では平安京へ遷都する以前の山城国の風土、文化、地理などが記されている。

■鳥部里(とりべのさと)の条
山城国風土記逸文にて鳥部里の記録が残る。

鳥部というは、秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)、餅を的とするに、鳥となり、飛び去り居る。そのところの森を鳥部という。

そして次の条「伊奈利社」でこの飛び去った鳥が、今度は山の峰に止まる。

■伊奈利社の条
伊奈利(いなり)というは秦中家忌寸等が遠つ祖、伊呂具の秦公、稲梁(いね)を積み冨裕(とみ)をたもつ。すなわち、餅を的となせば、白き鳥となり、飛び翔り山の峰に居る。(以下略)。

■稲荷神社の創建
伏見稲荷大社は、711年(和銅四年)、秦氏による創建とされる。上記、万葉仮名の「伊奈利」がやがて「稲荷」へと変化したとされる。稲荷神社発祥の根拠は山城国風土記に示されており、秦氏による創建である。

伏見稲荷大社を扱ったサイト↓

kyoto-stories.com

■いなりとインリ説
イエス・キリストが十字架にかけられた際のインリ(INRI:IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM)に由来するのではないかとする説もある。その英語の意味は、ユダヤ人の王、ナザレのイエス。これが秦氏キリスト教ネストリウス派だったのではないかとする説の根拠の一角である。なおネストリウス派はイエスの死後すぐ成立したわけではなく、徐々に教えがまとまっていった。 

■秦伊侶具
秦伊侶具は山城国風土記逸文で登場する人物。はたのいろぐと読む。この漢字を反対から読むと「黒い肌」と読むことの可能。

新撰姓氏録」の「山城国諸蕃・漢・秦忌寸」では次のような記述があり、「秦」と「肌」と関連があることを示している。

彼らが織った絹織物は柔らかくて滑らかな「肌」のようだったため、応神天皇は彼らに「肌」と同じ発音の「波多」という姓を賜った

ユダヤ人の肌の色
ユダヤ人は基本はアラビア人。個人差はあるが、皮膚の浅黒い、有色人種。ただし白人との混血も多く、古代ユダヤ人は、トルコ系ヒッタイトとの混血が多かったとされる。欧米のユダヤ人の場合は白人となるため、人種、言語、文化が異なってくる。

秦氏壬申の乱
壬申の乱は古代最大の内乱。奈良、大阪、滋賀にまたがる大規模な戦いであった。この結果により近江朝は敗れ、大海人皇子(おおままのみこ、のちの天武天皇)軍が勝利する。秦氏は672年の壬申の乱後、表舞台から消えたとされる。その後、おそらく各地で神社などを建設していく。
壬申の乱については別記事で紹介予定。

■感想
日本人のダジャレ好き的な文化は古来の秘め事や風刺に起因していると感じることがある。

<参考>
秦伊侶具 - Wikipedia