シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

19.カトリック教会のプロデュースで天正遣欧少年使節団はローマ法王に謁見した

キリスト教の伝来の話があっさりしすぎて頭に残っていない。教科書だと、鉄砲が来た、ザビエルが来た。今まで僧侶が中国に行ってたけど、今回は子供がヨーロッパ行った。そんな紹介に過ぎなかったと思うのですが、実は、奥深い背景、そして世界史と大きくつながりがあったのが「天正遣欧少年使節」です。

■スペインやポルトガル大航海時代
まず、先述の「17.応仁の乱・戦国時代と大航海時代の幕開け」の通りで、スペインやポルトガル大航海時代にありました。ローマ教会(カトリック)が腐敗している中、1517年、ドイツのルターの宗教改革、スイスのカルヴァンらの改革によって、キリスト教カトリックプロテスタントにニ分されていきます。
プロテスタントとは、抗議の意味で、カトリック教会に抗議、キリスト教の聖書の教えに立ち返ろう、というもの。
そういった中での、カトリック教国家であるスペインやポルトガルは、新たな貿易先や植民地とともに、カトリックの普及先を求め、やがて日本へとたどり着きます。
ポルトガル人による鉄砲伝来
まず1543年、中国の商船に乗って鹿児島・種子島に流れ着いたポルトガル人によって鉄砲が伝わる。
■フランシスコザビエルによるキリスト教
1549年、イエズス会宣教師のフランシスコザビエルが鹿児島に上陸、その後、日本にキリスト教を伝える。なぜキリスト教は人々に伝わっていったのか。大名としては貿易の利権のメリットが、農民たちにとっては、キリスト教の愛の教えが救いとなるとともに、教育、医療なども慈善活動が行われていたため、仏教に取って変わっていったと考えられる。
イエズス会の東方の三博士に見立てたプロデュース
そういった中、イエズス会は、東方の国、日本からの少年たちを、ローマ法王に謁見させるために4人の子供を選出しました。4人選んだのは、実は1人は長い航海でのバックアップ要員なのでした。1582年に出発、結果、4人とも無事到着します。伊東マンショ千々石ミゲル原マルチノ中浦ジュリアンの4人は、当時のローマ法王グレゴリオ13 世と謁見を果たします。ただし、実際に謁見したのは3人とされています。中浦ジュリアンは発熱のため謁見できなかったとされています。キリスト教として大きな意味を持つ「東方の三博士」の、「3」という数字に合わせるための、教会側の演出であるとクアトロラガッツィで紹介されています。
■ヨーロッパからの帰国と
そして1590年、日本に帰国します。このとき、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって、日本語書物の活版印刷が初めて行われたそうです。これは大きな情報革命といえるでしょう。なお、日本では、アニミズム儒教⇒仏教⇒キリスト教が受け入れられていくことになります。1つの軸でもって良い、悪いを「判断してやろう(※)」とするのではなく、多様な価値観でもって、そもそも「どちらでもない」、それぞれに個性があり、すばらしい、決められるものではない、そういうような、多様性が醸成されているのは、こういった受容性をもった国家、国民であるからだと思います。
■欧米と日本の価値観の違い
スポーツなどにおいて欧米の方は勝ちや負けや白黒を決めたがります。一方、日本では弓道、柔道などにおいて、勝敗を決めたがるのではなく、その「道」、技術や心構えでしょうか、そういったものを追求します。また、御存じのように、あいまいなのが大好きで、態度が煮え切りません。説明も苦手です。日本と、欧米では価値観が異なるのです。OSが異なっている、と考えましょう。それにいい悪いはありません。思考回路、役割、進化の方向性が違うと考えましょう。そしてたくさんの考えを許容できるのが日本の特徴なのです。
<参考>
・改訂版 中学校の歴史が1冊でしっかりわかる本
・クアトロ・ラガッツィ 上 天正少年使節と世界帝国 若桑みどり
天正遣欧少年使節 - Wikipedia
東方の三博士 - Wikipedia