シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

23.島原の乱に至る流れと鎖国中にも開かれた4つの場所

江戸時代に、日本史上、最大規模の一揆となった「島原の乱」。これほどまでに大きな一揆となった背景にはどのようなことがあったのでしょうか。戦国時代~江戸時代初期におけるスペイン・ポルトガルとの貿易と、キリスト教の歴史を、流れでみていきます。
バテレン追放令
当初、秀吉も信長同様にキリスト教を容認していました。しかし豊臣秀吉は1587年、バテレン追放令を発令します。※バテレンとはポルトガル語で、神父をあらわす「padre」に由来します。追放の理由は、イエズス会ポルトガル商人の権力が拡大。
長崎の領地がキリシタン大名大村純忠によってイエズス会に寄進される(1580年)など、領地管理が難しくなくなってきたようです。それでもキリスト教の布教活動は禁止するものの、信仰すること自体は否定していませんでした。そんな中、「サン・フェリペ号事件」が1596年に起きます。
■サン・フェリペ号事件と二十六聖人の殉教
サン・フェリペ号事件は、スペイン船サン・フェリペ号が土佐国に漂着、積荷や乗組員の処置、乗組員の発言を巡って起きた事件です。なかでも乗組員の中に、スペイン人はまずキリスト教を布教し、のちに軍隊を派遣して植民地化する、と吹聴した者がいた、
とされ、これに秀吉は疑念を抱きます。この事件が、1597年、秀吉の命令でカトリック信者26人を磔にするという、「二十六聖人の殉教」につながります。1603年に征夷大将軍となり江戸幕府を開いた家康も、当初キリスト教の布教に寛容でしたが、転じてキリスト教を禁止するようになります。
■マードレ・デ・デウス号事件
その契機は1610年に起きたノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件です。マードレ・デ・デウス号事件とも呼ばれるこの事件は、日本の朱印船が、マカオポルトガル船のマードレ・デ・デウス号とトラブルになり、乗組員60名が殺されてしまいます。その報復として日本側は長崎に入港していたデウス号を爆破、撃沈させます。
朱印船貿易
家康は朱印状と呼ばれる海外渡航を認める許可証を出して貿易を行っていました。ポルトガル人やスペイン人とも貿易を行っていましたが、キリスト教を禁止、宣教師を国外に追放するようになります。一方で、キリスト教の布教を行わないオランダとの貿易が活発になっていきます。
島原の乱
このような流れの中で、島原の乱(現・長崎県島原市)が1637年に起きます。島原の乱は、島原藩主の松倉勝家が過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対して熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から発生したとされます。双方の勢力は幕府側12万5千、一揆軍側3万7千(幕府側記録、異説あり)とされ、一揆軍は全滅、江戸時代の大規模な反乱・内戦となりました。1638年に終結します。
鎖国政策
この1年後、1639年、南蛮船(ポルトガル船)の入港を禁止、オランダ商館を長崎の平戸から出島に移します。以降、1854年日米和親条約締結までの期間「鎖国」政策がとられます。※鎖国は外国との付き合いを制限、原則日本人を海外に行かせない政策をいう鎖国の中でも、海外に開かれていた門戸は4つありました。1つめはオランダ、中国と長崎を通じて。2つめは朝鮮と、対馬の宗氏を介して。3つめは蝦夷と、松前の蠣崎(かきざき)氏を介して。4つめは琉球と、薩摩を介して。海外情報の入手としては1600年にオランダのリーフデ号が日本に漂着、航海長のウィリアム・アダムス(日本名・三浦按針)を幕府の外交顧問としました。オランダ、中国には「風説書」という海外の事情を記したレポートの提出を求め、江戸幕府は海外事情を入手していたようです。

鎖国という言葉のイメージと、幕府側では海外や貿易を通じてしっかりと情報収集を行ってい実態と、認識に乖離があるかもしれません。
<参考>
・改訂版 中学校の歴史が1冊でしっかりわかる本
・地図でスッと頭に入る日本史
バテレン追放令 - Wikipedia
戦国時代、長崎はイエズス会の領地だった!? | WEB歴史街道
サン=フェリペ号事件 - Wikipedia
日本二十六聖人 - Wikipedia
ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件 - Wikipedia
島原の乱 - Wikipedia
リーフデ号 - Wikipedia