シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

17.応仁の乱・戦国時代と大航海時代の幕開け

応仁の乱はなぜ起こったのだろう。また同じ時期、ヨーロッパはなぜ大航海時代へと突入していったのだろうか。

応仁の乱
まずは日本、応仁の乱から。室町時代封建制度は「守護大名」が領地を治める形が主流だった。南北時代に幕府から任命された守護は、次第に国司の仕事を吸収していった。守護とは、国単位で置かれた軍事指揮官・行政官。一方、国司とは、地方政治を行うもの。
守護大名の誕生
さらに守護は国内の武士を家来にしたり、農民から税を取り立てたりしながら、「守護大名」と呼ばれるようになりました。足利義満はこの守護大名を抑えながら
室町幕府による政治を安定させていました。
応仁の乱
しかし義満の死後(1408年死亡)、将軍の力が弱まり、権力は有力な守護大名に移っていった。当時の将軍家や、守護で家督争いが起きていました。これらの当事者が、幕府の実力者である管領細川氏、有力守護大名である山名氏に助けを求めまた。これを機に1467年、全国の有力守護が東西に分かれ、京都を主戦場として11年争うことになり、
京都は焼け野原と化しました。これが応仁の乱です。
下剋上
この戦乱ののち、多くの守護大名が自分の領地に戻りましたが、一揆や地方武士の反乱が起こり、実力者が守護大名にとって代わろうとする「下剋上」の風潮が全国に広がっていきました。

この同じ時期、世界は大航海時代であった。大航海時代に備えるかのように、日本は武力を高めていたのだろうか。

大航海時代
大航海時代は15世紀中頃から17世紀中頃まで、欧州人がアフリカ、アジア、アメリカ大陸へと、航海によって進出していった時代です。 時代背景として、まずレコンキスタが1492年に終焉します。レコンキスタとは、718年~1492年まで、複数のキリスト教国家・カトリック教徒がイベリア半島イスラム教徒から奪い返す活動の総称のことを言う。また、この年、スペインの援助を受けたイタリア人、クリストファー・コロンブスが新大陸(カリブ海域)に到達します。当時はアジア・インドに到達したと思われていました。
教皇分界線
コロンブスの帰還により、ボルトガル、スペインで「新世界」への航海がブームになりますが、ここで問題があった。コロンブス以前より、船団の到達先に対する争いが大きな問題となっていた。この問題を解決するために新大陸や大西洋の管轄を決めるための「基準線」を定めようとした。それが決まったのが1494年、トルデリシャス条約です。 まず1493年、教皇アレクサンデル6世により「教皇分界線」が引かれます。世界をアフリカ・ヴェルデ岬西方の子午線で区切るもので、その西をスペイン、東をポルトガルの勢力圏としたのでした。
■トルデリシャス条約
次に1494年、両国が協議し、教皇分界線を西方に270レグア進んだ子午線を境界線とする、「トルデリシャス条約」が結ばれました。
ヴァスコ・ダ・ガマ
 また1498年、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓します。
ヴァスコ・ダ・ガマが1497年にポルトガルリスボンを出港、南アフリカ喜望峰を回りながら、アフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアの都市)を経由しつつ、1498年、ついにインド西岸のカリカットに到達しました。

大航海時代は主にポルトガル、スペインが主役、世界規模でのヨーロッパ人による
貿易と植民地を求めた活動が展開されていきました。このあと、日本も大航海時代の影響を受けることになっていく。
<参考>
・改訂版 中学校の歴史が1冊でしっかりわかる本
・地図でスッと頭に入る日本史
・超図解 日本史&世界史
トルデシリャス条約 - Wikipedia