圧倒的な広大な国土と資源を持つアメリカ合衆国。なぜ日本は勝てるはずのない戦争をしなければならなかったのか。ブロック経済、全体主義、日独伊三国同盟、アメリカの日本敵視、ABCD包囲網、ハルノートの6つの観点から探る。次の流れでみていく。
・ブロック経済
・全体主義の躍進
・日独伊三国防共協定
・アメリカは日本を敵視していた
・ABCD包囲網
・ハル・ノート
■ブロック経済
貿易や経済がブロック圏を優先して行われるようになる。これより持たざる国側、日本、ドイツ、イタリアは「全体主義」を掲げることになる。日本は1938年には東亜新秩序を発表。日本、満州、中国の間でのブロック経済構築を掲げた。中国侵略を正当化した思想ではあるが、資源確保を最大の課題としていたことがわかる。
■全体主義の躍進
「全体主義」とは、個人の利益より、全体の利益を優先する思想である。そのためには、「個人は全体のために従属しなければならない」とする。政治における全体主義では、特定の党が独裁政権を維持し、反対意見を封じるために利用されやすい思想である。日独伊はもともと石油などの資源に乏しい国であったうえに、さらにブロック経済で貿易、資源の輸入に制限がかかってしまった。戦争を正当化し、国民の支持を得るため、全体を優先しよう、愛国心を持て、という主張を展開せざるを得ない状況が生まれていた。
■日独伊三国防共協定
「日独伊三国同盟」に至る前にこの協定がありました。1936年、日本がドイツと「日独防共協定」を結びました。1937年、にはこれにイタリアを加え、「日独伊三国防共協定」に広がった。日本は本来、「石油を持たない国」とは同盟をしたくなかった。しかし石油がないと軍艦が動かせないため石油が必要。独伊には資源としては石油がありません。ゆえに、石油のないドイツやイタリアとは同盟をしたくなかった、というのが本音でした。しかし軍需品は輸入に依存していたため、同盟関係が必要でした。
結局、以下の理由などに利害が一致、日独伊三国防共協定まで発展しました。
1.持たざる国同士であった
2.全体主義優先のため資本主義を否定をしたがる素地を持つ国同士だった
3.共産主義から国家を防衛する必要がある点で一致していた
4.次の点で利害が一致していた
①旧ソ連を仮想敵国とする
②ヴェルサイユ体制・ワシントン体制の打破したい
③アメリカ、イギリス、フランスとの対立している
こののち、ドイツが1939年に旧ソ連と「独ソ不可侵条約」を結びます。そしてドイツが1939年にポーランドに侵攻し、第二次世界大戦となる。なお、日本とソ連は、1941年に日ソ中立条約を結んだ。そのころ、日本は日中戦争(1937-1945)を継続中であり第二次世界大戦には不介入の予定であった。しかし1940年にはその方針を転換する。独伊ソとの連携を強化し、南進することになった。
そして防共協定が同盟関係へ発展、1940年、日独伊三国同盟を結ぶ。一方、日本のファシズム国家とのつながりは、自由を目指すアメリカからにらまれる形になった。1939年には「日米通商航海条約」の廃棄が通告され、翌年に失効した。
■アメリカは日本を敵視していた
アメリカからみた日本として、敵視していた理由は次の通りである。 1853年のペリー来航時こそ、弱小国のひとつ。大陸への補給地点として、武力行使で開国を迫った。 しかしだんだんと力をつけておりもはや見過ごせない状況となった。
例えば、以下の6つの理由がある。
①:1894年の日清戦争での勝利
②:1904年の日露戦争での勝利
③:第一次世界大戦時の混乱を利用しドイツが保持していた中国での利権を奪った
④:1921年のワシントン体制、1924年の排日移民法の成立
※このころオレンジ計画が発動か。オレンジ計画は1919年にアメリカが立てた対日本戦略。日本に先制攻撃させ、消耗させ、反転、海上封鎖して経済破綻させるという作戦。真珠湾攻撃で実現化した。
⑤:日独伊三国同盟によるファシズム国家との連携
⑥:大東亜共栄圏という対アジア向けの植民地の既得権益を奪う構想
■ABCD包囲網
1941年7月、日本軍がフランス領インドシナの南部に進出した。アメリカは在米日本資産の凍結、対日石油輸出禁止を決定した。これにイギリス、オランダ、中国が同調した。日本はこれらの国の経済封鎖を、それぞれの国の頭文字をとって「ABCD包囲網」と呼んだ。America、Britain、China、Dutchの頭文字である。なお、これはあくまで日本側がつけた呼称である。
本国のほかにも、日本は東南アジアの植民地側と距離が近い。そのため、植民地側をより重視しする必要がある。それぞれの植民地は
・フィリピン:アメリカ領
・ビルマ:イギリス領
・東インド・現インドネシア:オランダ領
である。参考に記した情報より地図で確認すると、日本を包囲する布陣、これが包囲網にみえる。
■ハル・ノート
1941年11月26日、アメリカから日本に提示された交渉文書である。アメリカ側のコーデル・ハル国務長官の名前に由来する。議会の承認を得ら文書ではなく、覚書扱いである。日本はこの条件を受け入れたら、これまでの日本の活動がなかったことになると考えた。日本は1941年12月8日、真珠湾攻撃とマレー半島上陸を同日決行、太平洋戦争となりました。
<参考>
・世界史から読み解く日本史
・増補決定版日本史 渡部昇一
・東亜新秩序 - Wikipedia
・防共協定 - Wikipedia
・独ソ不可侵条約 - Wikipedia
・日独伊三国同盟 - Wikipedia
・排日移民法 - Wikipedia
・ABCD包囲網を簡単にわかりやすく解説するよ【アメリカ・イギリス・中国・オランダ】 | まなれきドットコム
・ハル・ノート - Wikipedia
・日米通商航海条約 - Wikipedia