シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

44.真珠湾攻撃、事前通告が間に合わなかったのは双方の思惑が原因

アメリカに追い詰められた日本は日本は1941年12月8日、2つの地域で戦争を展開した。ひとつはアメリカ・ハワイオアフ島真珠湾。もうひとつはイギリス領・マレー半島真珠湾では奇襲が成功を納め圧倒的な勝利となる。しかし「奇襲」はアメリカ国民から非難を浴びのちに問題となる。果たして事前通告はしなかったのだろうか?12月8日の開戦前、何が起きていたのか。次の流れでみていく。
・開戦に関する条約
真珠湾・奇襲攻撃、宣戦布告は行ったのか?
・遅れてしまった事前通告
・なぜ遅れたのか

■開戦に関する条約
「開戦前には相手国に対して事前通告する必要がある」、ということが定められた条約がある。「開戦に関する条約(ハーグ条約)」である。これは1907年に発効された。日本は1911年に批准した。1912年に公布された。

真珠湾・奇襲攻撃、宣戦布告は行ったのか?
日本は真珠湾を攻撃、奇襲が成功、勝利する。アメリカ側からすれば「不意打ち」となる。また、極度に追い詰められた正当防衛的な状況であったとはいえ、事前通知なしの開戦は上記の国際法ハーグ条約の違反である。アメリカ国民は当初、日本との戦争に対して消極的だった。しかし真珠湾攻撃をもって、戦争支持に回るようになっていった。のちの原爆投下についても、不意打ちをする卑怯な国という心理が少なからず影響を与えていることに間違いない。さて、日本は本当に不意打ちを「したかった」のだろうか。

■遅れてしまった事前通告
経緯はいろいろあり、複雑なよう。結果としては「遅れてしまった」が正しいと思われる。※諸説ある。

ハワイ時間の1941年12月7日午前7時49分に日本軍の攻撃が始まる。ワシントン時間はそれより5時間時差がある。13時頃であった。その開戦から1時間以上が経過した、ワシントン時間の14時20分。ハル国務長官は日本政府からの最後通告を受け取る。通告を渡したのは、野村駐米大使と来栖特使と言われている。

■なぜ遅れたのか
参考文献によって諸説あり、事実部分を記載する。まず、アメリカ側の前提情報として。ハル国務長官は前日には攻撃が行われることを知っていた。既にアメリカは日本海軍の情報を暗号解読していた。現地ハワイ側にはあえて伝えない、という意図があった。また、「GHQは日本人の戦争観を変えたか・賀茂 道子 」によれば、暗号解読時の翻訳に開戦以前から誤訳があったという。

次に、日本側。事前通告がアメリカに渡るよう、山本五十六連合艦隊司令長官真珠湾攻撃前の対米宣戦布告を決めた。それを昭和天皇東條英機首相も伝えた。

東條内閣は外務省に対し、対米交渉の打ち切りを通告する「対米覚書」(最後通告となる書類)の作成を命じた。予定としては野村駐米大使と来栖特使が、攻撃開始の30分前、米国務省にてハル国務長官に提示できる手配を進めていた。ではなぜ遅れたのか。

それは実務上の滞りがあった。諸説ある。結論付けることをあえて割けたい。推測となるが、状況から、少なくとも日本内部で妨害があった。それが事務方の実務の滞りを引き起こした。日本側にも2つの勢力がいた。上層の昭和天皇東條英機首相、東條英機首相など。一方で、軍部などでどうしても奇襲を成功させたい勢力がいた。この頃はスパイなども横行し、攪乱もされていたかもしれない。アメリカ側も、奇襲などしてもらえば戦争やむなし、国民の支持を得られるというメリットがあった。

結果として、開戦前、事前通告を行うことはできなかった。

<参考>
開戦に関する条約 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/太平洋戦争
真珠湾攻撃 - Wikipedia
1.マレー半島上陸
https://ja.wikipedia.org/wiki/マレー作戦
・増補版 戦争と平和の世界史 茂木誠
真珠湾攻撃…なぜ日本の宣戦布告が遅れたのか? | 渡部昇一 | テンミニッツTV
真珠湾攻撃「だまし討ち」の責任は「大使館にあり」は本当か? リメンバー〝リメンバー・パールハーバー〟 Wedge ONLINE(ウェッジ・オンライン)
真珠湾攻撃に新説 「訂正」打電遅れ、陸軍が指示? 大使館は清書できず|【西日本新聞me】
GHQは日本人の戦争観を変えたか・賀茂 道子