シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

45.1945年8月15日、終戦の日に戦争は終わっていない

毎年8月15日、様々なイベントが行われる。この日はわたしたち日本人にとっての「終戦日」。「この日をもって戦争が終わった日」と考えている。そして「北方領土問題」がある。終戦日以降に領土を奪われた、なので返して欲しい。そう願っている人が大半である。ところで、この「1945年8月15日」は不思議な日である。いったい、どういう日なのだろうか。次の流れでみていく。
・ドイツとソ連の関係、独ソ不可侵条約
独ソ戦
ソ連の連合国入り
ソ連対日参戦
ポツダム宣言受諾日と調印日
国際法上の大東亜戦争終結
国際法上の大東亜戦争終結
・~1952年4月28日の条約締結前までの期間は何か?
・まとめ

■ドイツとソ連の関係、独ソ不可侵条約
ソ連共産国家を目指した国であった。米英仏からも日独伊からも警戒されていた。共産主義は賃金労働者重視する。反資本主義をかかげた思想はある意味で究極的な理想でもあり、資本主義国家と相いれない。そのような中、ドイツがソ連と1939年8月に結んだ「独ソ不可侵条約」は、世界にとって衝撃的な出来事であった。ソ連レーニンの目的はなんだったか。いったんドイツと手を結ぶ。ドイツに英仏と戦ってもらう。その後、ドイツが疲弊したところでドイツを侵略したかったのでは。そういう説がある。第二次世界大戦当初、ソ連はドイツとともにポーランドを共に占領していた。

独ソ戦
しかし、突如として1941年6月、ドイツがソ連に侵攻する。

ソ連の連合国入り
ソ連は、ドイツを含む枢軸国側と戦っていた「イギリス」と結ぶため連合国入りした。また、日本との戦いをきっかけに連合国入りした「アメリカ」の支援を受けた。結果、1945年5月8日のドイツが降伏、連合国が勝利する。これにより、ソ連に余力が生まれた。なお、独ソ戦の犠牲者は、
・ドイツ側の死者:約1000万、
ソ連側の死者:約2600万
と言われている。ただし、数には諸説ある。1945年8月8日、ソ連は米英と「ヤルタ協定」に基づき、日ソ中立条約を破棄。対日宣戦布告を行う。翌8月9日には満州に進撃した。

ソ連対日参戦
ソ連は1945年8月9日、ソ連対日参戦を開始する。戦争は1945年9月5日まで続いた。

ポツダム宣言受諾日と調印日
 実は8月15日とは日本がポツダムを「受諾」した日である。このままいけば日本国民全員が死ぬまで戦いかねないという状況だった。そこで「降伏します」と宣言し、戦意を喪失させるため、天皇から国民に向けて放送された降伏の「意思表示日」が8月15日である。玉音放送日である。なお、玉音とは天皇の声、玉のように清らかな声を意味する。ポツダム宣言の宣言国には「ソ連」は含まれていない。アメリカ、中国、イギリスが宣言をした。また、ポツダム宣言の「調印日」は9月2日(即時発効)でした。こちらにはソ連も参加した。なお、千島列島への侵攻は8月15日、国後島の占領は調印日の9月2日、歯舞群島占領はポツダム宣言調印後の9月3日である。

国際法上の大東亜戦争終結
 日本と連合国の間で、サンフランシスコ講和条約が結ばれた。1951年9月8日調印、1952年4月28日発効である。国際法上の日本の戦争終結日は「1952年4月28日」。ちなみに、ソ連はサンフランシスコ講和会議に出席はしたが調印はしていない。現在の中国は共産党軍と国民軍で紛争中であったため招聘されていない。なお、ポツダム宣言講和条約との違いは、ポツダム宣言は日本に休戦勧告つまり「有条件終戦」を提案した連合国側の政治宣言にあたる。

■~1952年4月28日の条約締結前までの期間は何か?
 本質的に戦争中である。しかしアメリカ軍が占領していたため、休戦中にある状態と考えればよい。

■まとめ
1945年8月8日:ソ連が日ソ中立条約を破棄した日
1945年8月14日:ポツダム宣言受諾日
1945年8月15日:玉音放送
1945年9月2日:日本の降伏文書調印
1951年9月8日:サンフランシスコ講和条約・調印日
1952年4月28日:サンフランシスコ講和条約・発効日、戦争終結
よって、8月15日~9月2日までの間は不利なグレーゾーンの期間である。

<参考>
・小説 日本史図録 第9版 山川出版
日ソ中立条約 - Wikipedia
日ソ中立条約
独ソ戦 - Wikipedia
連合国(第二次世界大戦)
ソ連対日参戦 - Wikipedia
ヤルタ会談 - Wikipedia
ポツダム宣言 - Wikipedia
ポツダム宣言
https://www.lec-jp.com/h-bunka/item/v260/38~43.pdf
サンフランシスコ平和条約 - Wikibooks